格式高い聖地・斎場御嶽
斎場御嶽
那覇の中心部から車で約1時間、沖縄南部にある斎場御嶽は、琉球王国時代から特別な聖地として崇められてきた場所である。
沖縄に約900カ所あると言われる御嶽の中で最高位とされており、その信仰は今もなお続いている。
琉球開闢伝説において、アマミキヨが七つの御嶽を作り、その一つがここ斎場御嶽である。
御嶽の中には6カ所に神域があり、大庫理・寄満・三庫理においては、首里城と同じ名前を持っており、琉球王国時代における首里城と斎場御嶽との深い関係を伺い知ることができる。
斎場御嶽をはじめ、かつて御嶽は男子禁制であり、斎場御嶽の入口の御門口を超えて中に入ることは許されなかった。
一般庶民ならず、たとえ国王であっても許可されていなかったため、入り口手前で祈りを捧げていたと言われている。
斎場御嶽は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2000年に世界遺産に登録されている。
近年はパワースポットブームによって、人気の観光地となりつつあるも、マナーやゴミの問題なども浮上している。
聞得大君と御新下り
琉球王国時代において、最高の御嶽として特別な扱いを受けた斎場御嶽は、数々の国家的な儀式が執り行われていた。
国家的な行事が行われる際には、斎場御嶽から望むことができる神の島とよばれる「久高島」より、白砂を運び入れ敷地全体に敷き詰める徹底ぶりだったという。
斎場御嶽は、王女または王の姉妹から任命される最高神職・聞得大君が管理を任されていた場所である。
数ある行事の中でも、もっとも重要な聞得大君の就任儀式「御新下り」がここで行われており、これはアマミキヨとの神婚儀礼を意味するものだ。
首里城で儀式を終えた聞得大君は、大里間切与那原にある要所に立ち寄り、斎場御嶽に入り2日間にわたって儀式を行っていた。
斎場御嶽では御新下りを行うために、数か月前から仮御殿が造られていたといわれている。
行事では聖水を額に付ける聖水の儀式「御水撫で(うびぃなでぃ)」が行われ、これによって神の御加護を得て、聞得大君が霊的な力を持つと考えられていた。
またこの聖水は、沖縄北部の国頭村辺戸にある安須森(アスムイ)まで使者を派遣させ、そこにある辺戸大川で水を汲んで献上していたという記録も残されている。
東御廻りと斎場御嶽
三庫理
また沖縄南部には「東御廻り」とよばれる、琉球開闢の神・アマミキヨが渡来し、住んだと伝えられる聖地を巡拝する行事がある。
その一つもここ斎場御嶽であり、琉球国王や聞得大君が巡礼する際には、巨岩の間からアマミキヨが最初に降臨したと伝えられる、久高島を遙拝する儀式が執り行われた。
この巨岩とは、敷地内にある中でももっとも格式高いスポットであり、「三庫理(さんぐーい)」とよばれる場所だ。三庫理は大きな二つの岩が支え合うように聳え立っており、人という文字にも思える。
左側の岩と右側の岩がバランスよく保たれており、三角形の空間の最奥部が拝所となっている。
歴代の国王はここから沖合5キロの場所にある久高島を、遥拝することを欠かさなかったという。
今では一般に開放されており、自由に見学をすることができる。
確かにここを訪れると凛とした空気が漂い、神秘的な空間であることが分かる。
沖縄のルーツが宿る島を見つめながら、人生について考える時間を過ごすひとときもいいものである。
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