天界寺の歴史

天界寺はかつて首里城と玉陵との間にあった寺院のことである。

 

第一尚氏時代、六代尚泰久王が創建した臨済宗の寺院で、1450年前後に創建されたものである。

 

円覚寺、天王寺とともに、首里三ケ寺の一つに数えられる非常に格式のあるお寺で、尚家の菩提寺でもあった。

 

創建当初の伽藍は、寝室・方丈・両廊・東房・西房・大門・厨司などで、七代尚徳王の時代、1466年には大宝殿を建立している。

 

しかしながら1576年に火災によって焼失しているものの、再興されておりその規模は1080坪に及ぶスケールの大きいものであった。

 

再興後は、先代の尚泰久王や尚徳王の位牌などが祀られ、菩提寺としての地位を確立している。

 

国王の元服や即位の際には、円覚寺、天王寺とともに3つの寺を巡る首里三ケ詣の習わしがあった。

 

1879年の廃藩置県後は、尚家の私寺となった時代もあったが後に払い下げられている。

 

そして1913年、首里にあった王府の最高位の神女とされた首里、儀保、真壁の神殿の3人の神殿が一つにまとめられ、天界寺跡の一角に「三殿内(ミトゥンチ)」が置かれ人々の信仰を集めるようになった。

 

1945年の第二次世界大戦によって三殿内は焼失してしまい、戦後は跡地に住宅が建てられた。

 

しかし1992年に首里城復元計画が進められると、その一部は道路と首里城公園の一部となっている。

天界寺の井戸

近くには天界寺の井戸が残されており、那覇の指定文化財に登録されている。

 

天界寺の周辺の地盤は固く、創建してから幾度となく掘削作業を行ったが、分厚い琉球石灰岩に覆われていたことから地下水を掘り当てることができなかった。

 

歴史書「球陽」によると、尚貞王の時代の1697年、寺僧の了道が蔡応瑞に頼み、調査を依頼して井戸を掘ったところ水を確保できたと伝えられている。

 

この井戸の内部はフラスコ状になっており、岩盤を垂直に掘り下げながら下に向かって幅を広げており、ほぼ球形になっている。

 

井戸口に接して滑車を下げるための柱の跡があり、左右の石垣の上には屋根をかけるための角柱形の石が残されており、首里周辺で多く見られる掘り抜きの井戸の中でも由緒ある井戸といえる。

 

この井戸の水質は非常に優れており枯渇することが少なく、お寺の用水として使われていただけではなく、地元の住民たちの貴重な資源ともなっていたと伝えられている。