中城城跡の創建とはじまり

中城城跡がいつ創建されたのかはっきりとしたことは分かっていないが、14世紀の中頃、先中城按司(あじ)の居城を構えるべく、中城城を造りはじめたことがそのはじまりと考えられている。

 

そしてその後、数世代に渡って南の郭、西の郭、一の郭、二の郭と規模を拡大していった。

 

発掘調査の結果、出土してくる遺物が14世紀後半のものであることから、このころからすでに城として使われていたことが分かる。

 

そして1440年、勝連が勢力を増してきたためその攻撃に備えようと、読谷の座喜味城から護佐丸が移ってきた。

 

そして三の郭と北の郭が新しく増築され、現在見られるような形を形成していったのである。

 

増築した際に、城壁を「相方積み」とよばれる高い技術が取り入れられている。

 

これは石を互いにかみ合うように形を整えていく技法で、石が抜け落ちても周囲の石が支えて強度を保っているため、部分的に修理することが可能なのである。

 

また同時に一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。

護佐丸の滅亡

そして中城城跡にとって決定的な出来事が1458年に起こる。

 

旧暦8月15日、月見の宴をしていた際に、当時勢力をつけていた勝連按司阿麻和利が首里王府軍の総大将として中城城を攻撃してきたのである。

 

そして護佐丸はこの地で自害することとなる。

 

護佐丸が滅亡した後は、1469年まで中城城は琉球王府の直轄地となり、王家によって管理されることとなる。

 

1609年に島津による琉球侵略があってからは「番所」として機能していた。

1800年代から明治時代まで

1853年の江戸時代、日本に開国を迫ったアメリカのペリー提督一行が1853年5月に沖縄本島を訪れ、その際中城城跡の調査測量を行った。

 

ここの城壁、アーチ門の建築技術の高さに感動し、ハイネが4枚のスケッチを残しており、またお城に関する詳しい報告書が残されている。

 

そして1879年に明治政府は「琉球処分」を強行し、廃藩置県となった。

 

日本に組み込まれた後は、町村制の実施に伴い城跡の一部は戦前まで中城村役場として使われてきた。

戦後の歩み

1945年(昭和20年)第二次世界大戦により、中城城内の村役場は焼失してしまった。

 

しかし沖縄本島では沖縄戦によってたくさんの文化財が焼失しているが、中城城は比較的被害が少なかったと言われており、それはグスクの石積みの技術力がそれを助けたとも言われている。

 

1955年には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。

 

また1958年には特別史跡、特別重要文化財に指定され、1961年から中城城跡石垣修復事業開始し、1968年にその事業を終了している。

 

その後ここ中城城跡の本丸にホテルを建設する計画が立てられ、政治問題までに発展する非常に大きな問題となった。

 

中城城跡の管理をしていた中城公園組合が、観光客誘致のために「中城高原ホテル」建設の計画を立てたのである。

 

しかしこれによって文化財の指定が取り消される可能性もあったが、組合側はそれでも辞さない態度を示した。

 

その後沖縄海洋博の開催に合わせて、1970年代に建設が進められていた。

 

当時として珍しいウォータースライダー付きプール、レストラン、お土産ショップなどが造られる予定であった。

 

しかし開催直前に当時建設を担っていた企業が倒産し、その後建設途中のまま放置され、廃墟と化し取り壊しが検討されている。

 

一部では心霊スポットや幽霊スポットなどともよばれ、話題となっている。

 

1995年には、20年計画で中城城跡保存修復事業がスタートし、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、首里城などとともに世界遺産に登録された。

 

2006年には「日本100名城」に選ばれ、今では多くの観光客が訪れる人気の観光スポットとなっている。