今帰仁城跡の成立

今帰仁城跡は13世紀頃に築城されたと言われているが、その正確な年代や時期については明らかになっていない。

 

諸説あるものの増築を繰り返していく中で15世紀初めに完成し、現在の姿になったといわれている。

 

今帰仁城跡は「北山城」、「山北今帰仁城」と呼ばれ、琉球王国が成立するより前の三山時代において、北山の国王・北山王の居城であった。

 

この時代は沖縄本島を3つのエリアに分け、北部は北山、中部は中山、南部は南山がそれぞれ支配していた三山時代であり、今帰仁城に拠点をおいていた北山王は、中国と活発に貿易をしていたと考えられている。

 

実際に城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く発掘されていり、当時の様子を知ることができる。

 

また今帰仁城は要塞としての山城であり、非常に曲線が美しい城として知られており、遠くから見るとその美しさ圧巻である。

 

築城には中国の版築技法が取り入れられており、曲線の多い技法は朝鮮の影響がみられ、海外との活発な交流の様子を伺い知ることができる。

 

中山の尚巴志によって滅ぼされる!

しかし1416年に中山の尚巴志によって攻め入られ、北山は滅ぼされることとなる。

 

尚巴志は北山を制した後も、要所として利用すべくこの地に監守を派遣させた。

 

またこれから先に起こるかもしれない戦に対して備えておきたい思惑があったのだ。

 

1609年の島津氏が率いる薩摩藩による琉球侵略の際には、今帰仁城跡に近い運天港から侵略をしてくると、その攻撃の第一目標となり、あっという間に征されてしまった。

 

しかしその後も長きにわたって監守を置いていたが、1665年に監守を首里に引き上げしている。

 

1749年には監守制についてや、首里にひきあげたときの様子を石に刻んでおり、本丸跡の祠前「山北今帰仁城監守来歴碑記」がその様子を物語る。

 

監守が住まなくなって後は、要所ではなく人々の心の拠り所となる御嶽として親しまれるようになり、県外からもたくさんの参拝者が足を運ぶスポットとなっている。

戦後の今帰仁城跡

戦後は遺構の整備がすすめられ、1972年に国の史跡に指定され、2000年には首里城とともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)」に登録されている。

 

2006年には「日本100名城」に選定されており、2010年には史跡名称が「今帰仁城跡 附シイナ城跡」に改められている。

 

今帰仁城跡は一月下旬〜二月上旬にかけてはカンヒザクラの並木があることから、桜の名所としても知られており、毎年多くの人がお花見に訪れる。

 

今帰仁城跡は他のグスクと比べると資料が少なく、まだまだ解明されてないことも多いが、発掘調査が進められており今後に期待されている。