沖縄最大のお墓・玉陵
玉陵(たまうどぅん)は「玉御殿」や「霊御殿」といわれ、沖縄県最大の破風墓である。
ここは琉球王国の第二尚氏王統の大型の陵墓で、歴代国王が葬られている。
玉陵は首里城の要路綾門大道にあり、天界寺に隣接しているなど非常に重要なロケーションにあることが伺える。
琉球では古来から祖先崇拝信仰の根強い文化を持っていることから、お墓を立派にすることが多く、王家の墓に限らず一般の人のお墓も本土と比べると大きい傾向にある。
玉陵は、国とまとめる琉球王家が模範となって墓を整備することで、祖先崇拝信仰をもとに国の統治や安定を図りたい意図があったと考えられている。
玉陵の歴史
このお墓は1501年に第3代尚真王が、父・尚円王を祀るために建築したものである。
しかし、日本軍総司令部や首里城に近い場所にあったことから、第二次世界大戦の沖縄戦には攻撃の巻き添えを受けて甚大な被害を被り、東室・西室が破壊されてなくなっている。
1974年から3年の歳月をかけて修復工事が行われ、現在では当時の様子を見ることができる。
2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として一つとして世界遺産に登録されており、国の史跡や重要文化財、県の有形文化財にも指定されている。
お墓の構造
お墓は自然の岩壁を活かした沖縄特有の型式を持っており、墓室は三つに分かれている。
中室は王が亡くなると洗骨までの遺体を安置していた場所であり、東室は洗骨後の王と王妃、その他の王族は西室に埋葬された。
敷地内の庭には全て珊瑚砂利が敷き詰められており、墓陵内は琉球石灰岩で出来た石垣によって囲まれて、お墓とは思えない見事な光景がとても印象的である。
墓頂には雄雌の石獅子が置かれており、琉球文化を見ることができる。
玉陵外郭の左側には小さな石碑が立てられており、玉陵の碑文が記されている。
これは第二尚氏第三代琉球国王・尚真王が1501年に創建した石碑で、沖縄に現存する石碑の中では2番目に古いと言われている。
お墓に入るべき資格を持つ被葬者を仮名書きで記したもので、9名の被葬資格のある者が記されている。
しかし本来の目的は尚真王の長男・尚維衡、浦添王子朝満が葬られることを排除することであったと言われており、王位継承の対立を見ることができる。
東の御番所と西の御番所
東の御番所
玉陵には東の御番所と西の御番所とよばれる場所があり、現在では東の御番所が復元されている。
王府時代の歴史を記した「琉陽」によると、1748年にはじめて玉陵門外の左右に御番所を立てて、2人の御番役を任命したことが記されている。
いずれの御番所も法事の際に、国王の控室として使われていた場所であるが、東の御番所の大きさはわずか2間ほどの狭い空間であった。
実際には国王の葬儀に使う道具などを保管に使われていたことが多かったようである。
しかし2000年に行われた発掘調査によって、南北約12メートル、東西約18メートルにわたって柱を支えていた礎石などの遺構が発見されており、中国の青磁器や陶器なども見つかっており、中国との活発に交流していたことが伺える。
西の御番所は法事の際には、主に女性方の控所として使われていたことが多かったと言われている。
太平洋戦争直前までは、格式のある家柄から選ばれた御番役が住み込んで、日常の管理などを行っていた記録が残されている。
しかし発掘調査の結果、西の御番所の遺構は確認されていない。
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