三山統一後の琉球王国

1429年、第一尚氏王統の尚巴志の三山統一によって琉球王国の歴史に幕を開けることとなる。

 

しかしながらこの第一尚氏王統の時代は、三山統一を果たしたものの依然として地方の按司と呼ばれる、いわゆる豪族たちの勢力が強く、琉球王府が有効的な中央集権政策を作り上げるのには非常に困難を極めた時代であった。

 

そんな時代の中、尚巴志は非常に優秀な王であり、中国・明との貿易を拡大すべく大交易時代に基礎を構築し、那覇港の整備を進めていき物流管理や保管などに関しても細かく整理していった。

 

さらに航海安全や五穀豊穣を祈願するための社を作ったり、仏教文化なども積極的に取り入れていったのである。

後継者問題と志魯・布里の乱

しかし尚巴志没後、わずか15年あまりの間に尚忠、尚思達、尚金福と三名の国王が次々に即位しており、頻繁に国王の交代を行っていた。

 

このような頻繁な国王の交代は琉球王府の不審を招くことでもあり、対外的にも好ましいことではなかった。

 

特に中国からの使者・冊封使をおもてなしすることは国を挙げての一大事業であり、次々に国王が変わることは琉球王府そのものが崩壊する危険性もあったのである。

 

そしてついに第一尚氏王統5代、尚金福王の死後、王世子の志魯と王弟の布里が王位を争うことになったのである。

 

この戦いは1453年に起きた後継者争いであり、「志魯・布里の乱 (しろ・ふりのらん)」とよぶ。

 

安定した琉球王国を構築していくどころか、むしろ内部から崩壊していくというまさに第一尚氏王統におけるもっとも危機的状況に瀕することとなったのである。

 

この争いよって首里城は全焼し、志魯も布里も最終的には命を落とす結果となった。

 

首里城正殿一階の下庫理前には当時の遺構跡があり、石積みが崩壊して焼けたような跡を見ることができる。

 

一説によればこれが志魯・布里の乱の戦いの跡であるとも言われている。

 

志魯・布里の乱の後、王位は布里の弟にあたる尚泰久が継ぐ事となった。

 

尚泰久は尚巴志の七男であり、まさに意外なかたちで王位が巡ってきたのである。

 

尚巴志の側には金丸という有能な人物がつき、首里城に居城することとなったのである。

 

これらの経緯は、中国の史書である「明実録」においても首里城が焼失した経緯が記述されている。

 

志魯・布里の乱の3年後には、首里城は再建されその時の様子は、中国の史書「李朝実録」に記録されている。