エレガントな雰囲気のある守礼門

守礼門

守礼門

首里城の守礼門は、ガイドブックやパンフレットなどにもよくその写真が起用され、まさに首里城のシンボルともいえる門で、2,000円札の絵柄にもなっている。

 

首里を東西に走る綾門大道の東側にある楼門で、いわば日本城の大手門に値するものである。

 

首里城は城門の多い城であるが、中でも一際美しくエレガントな印象があるのが、この守礼門である。

 

柱は4本、二重の屋根と赤い本瓦が印象的で、中国風の牌楼とよばれる形式を取り入れている。

 

創建当時は現在のような瓦葺きではなく、板葺きであった。

 

首里城の城門や建築物には、正式な名称とは別な呼び名が付けられているものが多く、守礼門は「首里門」や「上の綾門(いいのあやじょう)」とも呼ばれた。

 

これは「上の方にある美しい門」いう意味があり、守礼門が古くから親しまれていたことが伺える。

 

尚、この「上の綾門」に対して、首里の街の入口に下の綾門(しむぬあやじょう)」と呼ばれる門があったが、明治時代に老朽化によっては撤去されている。

守礼門の歴史

1429年に約450年続く琉球王国が誕生し、1469年に伊是名島出身の農夫によってクーデターが起こると、政権交代が起こり第二尚氏王統がスタートした。

 

創建された時期の詳細については特定できていないものの、4代目尚清王の時代には、すでに守礼門は創建されていたと考えられている。

 

1933年(昭和8年)に歓会門や瑞泉門とともに国宝に指定されてものの、沖縄戦によって焼失しまう。

 

現在見られるものは1958年(昭和33年)に復元されたものであり、1972年に沖縄県指定有形文化財に登録されている。

扁額・「守禮之邦(守礼之邦)」の変遷

現在見られる守礼門の扁額には「守禮之邦(守礼之邦)」と掲げられているが、創建当時は「待賢」と記され、後に「首里」の扁額が掲げられるようになる。

 

その後6代尚永王の時代になると、現在のような「守禮之邦(守礼之邦)」となった。

 

この言葉は明皇帝の親書に、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」から取られたものである。

 

「守礼」とは「礼節を守る」という意味があり、「琉球は礼節を重んずる国である」という意味を表しており、これが守礼門と呼ばれる所以である。

 

一時的には、中国から使者「冊封使」が来ているときには「守禮之邦」を掲げ、それ以外の期間は「首里」の扁額を掲げていた時代もあった。

 

冊封使が琉球を訪れた際は、国王以下の高官らが守礼門まで出迎えにいっていたのである。

 

9代尚質王の時代になると「守禮之邦(守礼之邦)」を常時使うようになり、現在に至る。