薩摩藩の島津氏による琉球侵略

琉球王国は、中国との友好関係を保ちながら、貿易などを通して経済や文化などを着実に発展させていき、約400年もの間繁栄して時代である。

 

しかし1609年に琉球王国にとって、本格的な対外戦争ともいうべき決定的な出来事が起こる。

 

それこそが島津氏による琉球侵略である。

 

薩摩藩主の島津家久から琉球征伐の命令を受け、総大将の樺山久高が約3000人の兵士を連れて、薩摩の山川港から70〜80隻余りの船が琉球王国を目指して出港していったのである。

 

もともと戦に慣れていた薩摩軍は、奄美大島や徳之島などを次々に攻め入り、どんどんと南下をしていき、次に沖縄本島の運天港に上陸をしたのである。

 

そしてまずは運天港に近い場所にある今帰仁城を3月27日に攻め入ると、さらに南下していき4月1日には琉球国王の拠点であった首里城に島津の薩摩軍が攻め入り、占拠に成功した。

 

戦国時代を生き延びてきた薩摩軍に対抗できるほど琉球軍には力がなく、やがて降伏に追いやられることになるのである。

島津氏が琉球王国を攻めた理由

中国との貿易によって経済発展を遂げていた琉球王国に対して、島津氏はにらみをきかせていた。

 

琉球王国は中国のみならず、東アジアを基盤とした安定した政権を確立しており、琉球王国を通して貿易を活発に行いたいという思惑があったのである。

 

また当時徳川幕府体制にあった本土において、薩摩藩は徳川幕府から信頼を得て自藩を有利にしたいと考えていたことや、領地拡大、度重なる戦によって基盤が弱体化していたためその財政を立て直したいという考えがあったのである。

 

島津氏が琉球王国を侵略したことについては諸説あるが、有力とされているのは徳川幕府が琉球を通じた貿易を活発に行いたい思惑があり、薩摩軍に琉球王国を侵略させたという説である。

幕府体制の中に入った琉球王国

琉球王国を制した島津家久は、徳川幕府から琉球の支配権を与えられ、奄美諸島を自藩の領とし領地拡大に成功した。

 

しかしながら実際には、明治政府による琉球処分が行われるまでの260年間、幕府の支配下にあり徳川幕府に組み込まれながらも独自の歴史を歩み続けていくことになるのである。