歴史(現代沖縄)記事一覧

牧志公設市場沖縄に行ったら地元ならではのグルメを満喫することも、観光の醍醐味という人も多いはずだ。その一つ国際通りの市場本通りのアーケードの先にあり、ゴミゴミとしたローカルな市場こそが、牧志公設市場である。沖縄近海の新鮮な魚介類、地元野菜や果物、県産の肉類、島豆腐、調味料、加工品、乾物などのお店や約150店舗密集しており、2階では1階で購入したもの調理してくれる食堂となっている。観光客だけではなく...

第二次世界大戦の末期、沖縄本島は沖縄戦によって壊滅的な被害を受け、多大な犠牲者が出て1945年に戦争は終結をした。その犠牲者は県民の4人に1人に及び、その数は軍人よりも民間人の方が多かったという。そして1951年のサンフランシスコ講和条約によって、日本はアメリカの政権下の置かれるものとされた。条約は1952年4月28日に発効され、アメリカの政権下のもとで琉球政府が発足した。立法機関「立法院」などを...

1945年に日本は敗戦を迎えると日本は連合軍によって占領され、沖縄もまたアメリカの軍政下に置かれることになる。沖縄ではこれを「アメリカ合衆国による沖縄統治」といい、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による沖縄占領から、1972年(昭和47年)5月に沖縄の本土復帰が起こるまでの、約27年間の歴史をさす。1945年8月15日の終戦からわずか5日後の8月20日に沖縄県庁は解体され、アメリカ軍によって「...

福州園は沖縄県那覇市にある公園であり、那覇空港から車でわずか10分の場所にあるロケーションのよい公園である。福州園は総面積8,500uに及び、かつて福州人がこの沖縄の久米村に来たこと記念し、三山(千山、烏山、屏山)、二塔(白塔、烏塔)、一流(ミン江)など、福州を代表する風景を描いた庭園である。この公園は1999年2月、「那覇市制施行70周年記念」と中国福州市と那覇市の「友好都市締結10周年」を記念...

沖縄都市モノレール線とは、「ゆいレール」の名前で親しまれている沖縄唯一の電車であり、現在沖縄の玄関口である那覇空港駅と世界遺産の首里城のある首里駅の間、約12.5キロを結んでいる。この区間はワンマン運転となっており、約30分かけて2両編成の車両が走るものだ。この「ゆい」とは、琉球方言の「ゆいまーる」という言葉に由来しており、労力交換や農家の畑仕事を意味している。現在、首里駅からてだこ浦西駅までの区...

沖縄国際海洋博覧会とは沖縄の本土返還を記念して、1975年7月20日〜1976年1月18日までの約183日間にわたって開催された国際博覧会である。開催された場所は沖縄北部の沖縄県国頭郡本部町で、現在の美ら海水族館のある場所である。略して沖縄海洋博、海洋博との言われ、沖縄本土返還からわずか3年後に開催されたこともあり沖縄経済の起爆剤として期待された博覧会であった。開催テーマは「海-その望ましい未来」...

1975年に開催された沖縄海洋博は、予想来場者を大きく下回る結果となり、観光県をアピールするのにはやや力不足の結果となったが、その基礎を築く一歩となったともいえる。高速道路や国道などの整備、大型ホテルの建設、商業施設などの建設が進められた。しかしそれは一時的なものに過ぎず、翌1976年にはホテルの稼働率が急激に低下したことによる相次ぐホテルの倒産、観光収入も激減してしまい、沖縄は戦後最大の危機的な...

2015年に沖縄と訪れた外国人観光客は150万人を超え、はじめて100万人を超えた。その年に沖縄を観光目的で訪れた人は776万人となることから、実に5人に1人は外国人観光客ということになる。訪れた観光客は中国がもっとも多く、続いて韓国、そのほか台湾や香港などの近隣諸国からの観光客が全体の8割となった。このような観光ブームとなった理由には、2011年から日本政府は中国人個人観光客向けの沖縄滞在を条件...

1956年(昭和31年)、アメリカ下院軍事委員会は、沖縄に「プライス勧告」とよばれる沖縄の軍用地問題に関する報告書を提出している。これはプライス議員をはじめとする調査団を沖縄に派遣して調査結果をまとめたもので、この議員の名前をもとに付けられた名称である。この勧告は沖縄基地の重要性や必要性を述べたもので、軍用地料を10年分一括で支払うことを提示し、これまで占有していなかった土地買い上げの必要を勧告し...

戦前の沖縄県は、他の日本国内と同じように自動車は左側通行であったが、沖縄な戦後アメリカの支配下に置かれることとなり、アメリカ海軍政府によって右側通行に変更され1947年には右側通行を定める「自動車交通取締規則」が施行されている。沖縄返還後も「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」によって暫定的に右側通行とされていた。当初は沖縄返還後4年後の1976年に左側通行へ切り替える予定であったが、沖縄海洋博...

沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律とは、1971年に発令された沖縄県の本土復帰に伴い、諸制度を円滑に進めるための特別な措置を定める法律であり、通称「沖縄復帰特別措置法」とよばれている。沖縄県は戦後アメリカの支配下に置かれ、そこで整備された制度は日本の制度とは大きく異なる点が多く、沖縄の本土復帰に際して混乱をもたらす恐れを懸念されていたのである。すぐに日本の制度を適用すれば沖縄の社会や経済に不安を...

太平洋戦争が終結すると、本土復帰を果たす1972年まで、沖縄はアメリカの統治下に置かれることとなる。約27年もの間アメリカの支配下に置かれ、その中で沖縄はアメリカの影響を受けながら、独自の文化を歩んできたのである。アメリカ軍の支配下にあることで、基地問題など様々な問題を抱えながらもアメリカの文化の影響を受け、沖縄発展に貢献してきたことも事実である。終戦直後は食糧難に陥った沖縄では、アメリカ軍の食糧...

首里城といえば、琉球王国を代表するまさにシンボルともいえる歴史建造物であり、まさにその時代における経済、政治、文化の中心的な役割と担っていたお城である。首里城はかつての貿易の拠点であった那覇港を一望できる丘の上に立ち、外城、中城、内城の3つの地区から構成されていた。当時中国と活発に交流を行っていたことから、中国の文化の影響を受け、華やかな琉球文化を築いていたのである。しかし約450年続いた琉球王国...

2000年7月21日〜23日の3日間、沖縄で行われたサミット(主要国首脳会議)は、正式には九州・沖縄サミットと言う。これは首脳会議が沖縄、閣僚会議が九州で行われたことから「九州・沖縄サミット」と呼ばれたのである。サミットは1975年にフランスで開催されて以来、毎年開催されているものであり、首相や大統領などが参加し沖縄サミットは26回目に開催された。開催場所は名護市の「万国津梁館」で行われた。この万...

那覇新都心とは、沖縄那覇市の北部に位置する再開発地区のことであり、おもろまち地区とも呼ばれる。戦後はアメリカ軍によって強制接収されていた場所であり、1987年(昭和62年)に30年以上経過したようやく返還された土地である。日本側に返還された後には新都心開発整備構想のもと、道路開発や公共施設建設のために地主たちが所有する土地の約半分を、国と地方公共団体に譲渡している。しかし一方でこのエリアはシュガー...

コザ暴動が発生した1970年代、当時のコザ市はベトナム戦争から帰還もしくは一時休暇の兵士が多数おり、戦争で疲れた兵士たちは基地の外でお酒や薬物などにおぼれることも少なくはなかった。ベトナム戦争が本格化してからの沖縄での米軍による犯罪率は高くなる一方であり、そのうちの大半がコザ市で発生している。当時アメリカの支配下にあった沖縄では、米軍の引き起こした事件の逮捕権や裁判権などの権利はすべてアメリカ軍当...

唐人墓は、石垣市街から海沿いの道を北西に進んだ観音崎にある墓地で、広い駐車場があり海沿いにあるだけあって訪れる観光客も多い場所である。とてもカラフルな建物が印象的であるが、ここ唐人墓には中国福建省出身者の128名の霊が祀られている場所であり、どこか厳かな雰囲気が漂う場所でもある。ここは1852年、米船ロバート・バウン号事件で犠牲になった中国人苦力の慰霊のため、1971年に建立されたものである。

那覇空港からゆいレールで約15分、那覇の中心部ともいえる場所が国際通りである。第二次世界大戦後、焼け野原になり混乱を極めた中でも早くから復興の兆しをみせはじめたことから、「奇跡の一マイル」とも言われた。国際通りは県庁北口交差点から安里三叉路にかけての約1.6キロの通りであり、長さがほぼ1マイルであることからこのように呼ばれた。今ではお土産店、たくさんのグルメスポット、食料品店、ホテル、旅行代理店な...