金武観音寺の創建と日秀上人

金武観音寺は、沖縄県国頭郡金武町にある真言宗の陣であり、山号は「金峯山」と称する。

 

金武観音寺は、金武に漂流した日秀上人(1503〜77年)によって、創建されたものである。

 

日秀は19歳のときに家臣を殺してしまうものの、月日が経てどもその懺悔の念を持ち続けていた。

 

そしてついに家を出て高野山を目指し、優秀な師匠のもとにつき修行を行った。

 

密教の教えを懸命に学び、高野山にて出家をするのである。

 

そしてある時、日秀は「娑婆界(この世)の塵を去って補陀洛の浄刹(浄土)に行きたい」と願うようになり、自然の波に任せて航海に出発した。

 

これには諸説あり、熊野より中国の唐を目指したとも伝えられている。

 

しかしいずれにしても遭難してしまい、琉球王国の金武の港に漂流してしまうことになるのである。

日秀上人の漂流と観音寺の出会い

金武の港に漂流した日秀であったが、港に到着したことに安堵の念を抱いた記録が残されている。

 

「琉球国由来記」によると「本当の補陀落山を知った。またどこに赴いて補陀落山を求めようというのか。錫を留めて安住しよう。幸せなことだ」という言葉が残されている。

 

この「補陀落」とは日本の中世において行われた捨身行の形態を意味するものであり、自然の波に任せて航海することを「補陀落渡海」とも呼ばれている。

 

日秀は港から内陸の方へ歩くと、ここ観音寺に到着をするのであった(一説には漂流地は那覇との見方もある)。

 

そして金武付近を補陀落とみなして、金武にある鍾乳洞を拠点とし布教活動につとめた。

 

洞窟内にお宮を建立し、熊野三所権現を勧請し、観音寺を創建したと伝えられる。

 

これが観音寺の歴史のはじまりである。

 

日秀の乗っていた舟は、のちに観音寺の宝物として保管されることになる。

 

そして日秀の名は首里城の国王にも知られるようになり、日秀上人は観音寺のみならず、琉球八社の一つである波上宮などの再興にも貢献していったのである。

昭和時代の金武観音寺

1934年(昭和9年)に火災により焼失した後、1942年(昭和17年)に再建されたものであるが、奇跡的に沖縄の戦禍をまぬがれ、今も再建されたままの姿を見せている。

 

多くの歴史的建造部が太平洋戦争で消失した沖縄において、戦前の古い建築様式が残る貴重な木造建造物といえる。

 

日秀が最初に布教活動をした鍾乳洞は、今では「日秀洞・永酒堂」と呼ばれ、泡盛の酒蔵として利用されている。

 

1984年(昭和59年)には観音寺本堂は金武町の文化財に指定され、1991年(平成3年)には境内のフクギが金武町の文化財に指定されている。

金武観音寺の鍾乳洞

「日秀洞・永酒堂」とよばれる鍾乳洞は、地下30メートル、長さ270メートルのスケールで、一般にも公開されている。

 

大蛇が村人を苦しめたと言われる龍神信仰の伝説を持っており、龍信仰の発祥の地とも伝えられており、洞内には拝所が多数存在している。

 

また鍾乳石は赤ちゃんの姿に似ていることから、子宝や安産のスポットとしても親しまれている。

 

現在では天然の泡盛酒造庫として利用されており、貯蔵庫にずらりと並ぶお酒の数は圧巻である。

 

通年を通して18度に保たれており、じっくりと寝かせて古酒を製造している。

 

5年後もしくは10年後と時期を決めてボトルキープをすることもできる。

 

金武観音寺に隣接している観音茶屋では、泡盛の販売、鍾乳洞でのボトルキープや古酒製造の見学の受付などを行っている。