熊野信仰と深い関わりのある識名宮

識名宮は那覇市にある琉球八社の一つであり、琉球八社とは明治政府以前の琉球王国時代において、王府から特別な扱いを受けた社のことである。

 

首里城から約1キロ離れた識名霊園のそばに位置しており、参道を抜けると鳥居がありまずは拝殿が見えてくる。

 

そして後方には赤い本殿があり、観光客も少なくどこか静かな佇まいを見せている。

 

識名宮は「琉球神道記」の中で「尸棄那権現」、琉球国由来記では「姑射山権現」と記されおり、「琉球神道記」には「縁起亦明ナラズ。熊野神ト見ヘタリ。石窟惟霊地也」と書かれている。

 

つまり熊野信仰と深い関係があり、その他の末吉宮は「熊野新宮」に、普天満宮は「熊野那智大社」、識名宮は「熊野本宮」に見立てて、古来から信仰されていた。

 

祭神は熊野信仰にゆかりのある伊弉冉尊・速玉男命・事解男命・午ぬふぁ神・識名権現である。

識名宮の歩み

識名宮は琉球王府から厚いご加護を受けており、16世紀半ば尚元王の長男・尚康伯の病気回復に霊験を得て、識名宮と神応寺を建立されたと「遺老説伝」の中で記されている。

 

この霊験とは、識名村は夜になると光り輝くことがあり、「大あむしられ」が調査したところ、洞内に聖僧が一体安置されていたことがと伝えられている。17世紀に入り尚賢王の時代となると、年一・五・九月の吉日に国王がここ識名宮を訪れて参拝していたと言われている。

 

識名宮の社殿は普天間宮や金武宮と同様に、洞窟の中にあったが、湿気がひどく腐敗が進んだことから1680年に、洞外に移築され瓦葺となっている。

 

その際に拝殿・石垣などの補修工事を行ったが、その修繕費は王府から支給されており、琉球王府のもとで大切にされていたのかを伺い知ることができる。

 

戦前の識名宮は本瓦葺きの三間社流造で、沖宮本殿に非常によく似た造りであった。

 

しかしながら識名宮は、第二次世界大戦中の沖縄戦によって焼失をしてしまったが、戦後識名宮奉賛会によって1968年(昭和43年)に社殿が復元されている。