「崎山ギャラリー」と「崎山馬場」
崎山ギャラリー
「ヒジガービラまーい」とは、ヒジ川橋から守礼門に至るおよそ約2キロの散歩道であり、琉球王国時代の古い道路が並び、歴史や文化に触れることのできるスポットである。
首里界隈の石畳道近くにあり、周辺に琉球王家ゆかり地が多いことを発見できる道である。
首里城の裏手を進むと「崎山ギャラリー」とよばれる場所がある。
ここは崎山村、赤田村、鳥小堀村(現在の首里鳥堀町)は首里3箇と呼ばれ、琉球王国時代から庶民の町として栄えてきた場所である。
特に1879年の廃藩置県以降は、泡盛造りが盛んに行われるようになり、やがて沖縄各地にその名が伝えられるようになった。
ここから東へ90メートル先にあるところから直線に東へ230メートル延びる道があり、ここはかつて「崎山馬場(サチヤマウマウィー)」と呼ばれ、王家御用の馬場であった。
ここでは主に馬術訓練が行われ、琉球国王も見学することもあったという。
また崎山村の人たちはこの馬場で綱引きをすることもあった。
馬場であった道は整備され「崎山ギャラリー」として、今でも崎山地区の人たちの憩いの場所となっている。
「崎山遺跡」と「崎山御嶽」
崎山御嶽
さらにこの地区には崎山遺跡や崎山御嶽と呼ばれる場所がある。
崎山遺跡といっても非常に小さなもので、まるで桃のようなかたちをした琉球石灰岩に覆われた場所が崎山遺跡である。
旧石器時代の遺跡で、鹿の角や骨が発見されたが、採石工事のために著しく破壊されてしまっている。
今ではわずかに堆積する赤土と石灰岩の表面に鹿の骨が見られるのみとなっているのだ。
崎山御嶽はかつての崎山村の御嶽であり、史書「琉球王国由来記」によると、察度王の子で崎山里主の住居跡と伝えられており、古い瓦が出土する遺跡と言われている。
崎山里主は、琉球八社の一つである波之上宮の縁起にかかわったとされており、崎山里主が釣りをしていた際に拾った霊石を波之上宮にお祀りしたことがその起源といわれている。
拝殿に当たる門は、1865年に木造の瓦葺から石造切妻型のアーチ門に改造されたが沖縄戦で破壊され、今ではコンクリート造りの門となっている。
また崎山御嶽は、琉球王国時代に高級女神官であった首里大阿母志良礼が仕えた場所であった。
近くには崎山樋川とよばれる場所があり、崎山御嶽とともに年中行事のおりには首里大阿母志良礼が参詣していた場所である。
崎山樋川では、良い方角が南南東に当たる年には、元旦に王様に献上する若水が汲まれていたと伝えられている。
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