三山時代と朝貢

琉球王国が誕生する前の時代を「三山時代」と呼び、南部を南山、中部を中山、北部を北山と3つの勢力が支配していた。

 

この頃からすでに中国との貿易は行われており、1372 年に中山から始められた、中国(明)への「朝貢」と呼ばれるものこそが、琉球王国が貿易国家として発展を遂げる原点ともいえるものである。

 

朝貢とは中国の皇帝に対して周辺諸国が貢物を捧げ、皇帝側よりも君主であると認めてもらい、経済的にも軍事的にも安定した基盤を確保することを目的としたものである。

 

事実、三山時代のグスクからは中国との貿易を思わせる多数の出土品が確認されている。

 

そして南部の尚巴志が三山を統一して、1429年に琉球王国が誕生するのである。

 

琉球王国は1429年〜1879年まで、約400年間もの間繁栄していた国である。

 

三山時代に続き、王国にとって中国(明)や東南アジアと活発に貿易を行うことは、国の経済を安定させる重要なことであると考えていたのである。

琉球王国時代と中国

首里城

首里城

琉球王朝時代のはじめは、明に馬や硫黄などを輸出していたが、その代わりとして絹織物や陶器などが輸入されるようになっていった。

 

また琉球王国の政治、文化、外交の拠点として機能していた首里城では、中国からの影響と日本の建築文化が融合した独特の建築様式や石組み技術を見ることができ、学術的に文化的に非常に価値の高い歴史的建造物として評価されている。

 

琉球王朝時代において、首里城には度々中国皇帝の使者である「冊封使」が訪れており、首里城の守礼門には琉球が礼を重んじる国家であり、武器を使わず国を治めていることを示すため、「守礼之邦」という額を掲げ、ご一行を歓迎していたのである。

「沖縄文化のルネッサンス」と言われた時代

1609年に、琉球王国におけるはじめての対外戦争となる薩摩軍の侵入を受けることになる。

 

戦国時代を経験している薩摩軍には力及ばず、琉球国家としての継続しながらも、事実上は幕藩体制の一環に組み入れられることになるのである。

 

するとこれまでの中国や朝鮮との貿易を活発に行っていたが、さらに日本文化が加わるようになり、琉球文化はますます最盛期を迎えた。

 

18世紀に入ると芸能、工芸、文学、音楽などが大成していき、「沖縄文化のルネッサンス」と呼ばれる時代を迎えることになるのである。

貿易国家としての大成

今の那覇港は三山を統一した尚巴志が、中国の貿易を行う上で重要な拠点と考え、整備をすすめたことがそのはじまりである。

 

それまでは小さな島々から構成される港であったが、中国との交易船が度々訪れるようになり、東アジアの一大貿易港として発展を遂げていったのである。

 

そして琉球王国の玄関口として中国、東南アジア、朝鮮、日本、さらに南はシャム、マラッカ、ルソンとの貿易を進め、王国の経済基盤を固めていったのである。

 

沖縄は小さい島でありながらも、貿易国家として成長し潤っていたことは、歴史上非常に興味深いことと言われている。

 

尚巴志の子どもである尚泰久は、6代目の王位を継承したくさんの寺の建立に力を注いだ人物である。

 

また鐘を多数製造したことで知られているが、その一つに「琉球国は南海の勝地にして三韓(朝鮮)の秀をあつめ、大明(中国)をもって輔車となし、日域(日本)をもって唇歯となす。舟楫をもって万国の津粱となし、異産至宝は十方刹に充満す」と鐘に刻まれており、琉球王国が、朝鮮や中国と活発に貿易を行う海洋国家であったことを伺い知ることができる。