琉球王国の再建に寄与した羽地朝秀
1609年に琉球王国は薩摩軍の侵略によって、初の対外戦争となったものの、見事に相手の戦略にのみ込まれていき、あっと言う間に首里城を接収されてしまった。
その後は事実上、江戸幕府の支配下に置かれるようになると、琉球王国の財政は疲弊した状態へ陥っていき、そこで王国の再建のために就任したのが羽地朝秀である。
この人物は1650年、王の命令によって琉球王国はじめての正史となる「中山世鑑」の編纂を行い、琉球王国初となる歴史書を完成させている。
島津侵攻から約50年後の1666年に尚質王の摂政に就任し、1673年までその任務を果たしている。
羽地朝秀は1675年に死去しており、まさに生涯をかけて琉球王国の再建に寄与した有能な人物なのである。
彼は琉球の五偉人に数えられるほどに非常に琉球で称えられた人物であり、葬儀には当時の国王・尚貞王も出席をしており国葬級の大きな葬式であったと言われている。
羽地朝秀の改革
羽地朝秀は1673年に羽地仕置を制定した。その内容は「倹約令」、「古い伝統行事の見直し」「役人の不正の取り締まり」「風紀の粛正」「神女組織の再編」「士族への大和諸芸の奨励」「身分の明確化」など多岐に渡り、まさに琉球王国が近代化への一歩を歩むほどに非常に実用的な内容で、琉球王国の立て直しを図ったのである。
他にも新たに行政区として間切を設置したり、各間切には間切番所を設置するなど地方改革にも貢献している。
羽地朝秀が行った政策の特徴は、主に財政再建と政教分離を中心とした改革であった。
特に多くの財源が必要となる土着の琉球神道を問題視し、聞得大君位の格下げ、琉球行事に欠かせない東御回りの王参拝の禁止、など祭祀に関わることを縮小させる改革を行った。
これは徹底した禁止事項ではなく、行政や祭祀を行う上で差しさわりのない範囲では認められている。
蔡温と儀間真常
羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれた。
蔡温は農業生産の向上、河川工事や山林の保護、治水・灌漑事業を実施して全国の河川の改修を行った。
1734年に「農務帳」を発布して農業生産の向上を行い、蔡温は自ら河川改修のために現地に足を運び、改修事業を指揮している。
また「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行い、山林改革なども行った。
まさに琉球王国の農業の発展に大いに貢献したといえる。
またこの頃、親方真常によってサトウキビから黒糖を生産する技術を確立しており、黒糖は貿易を活発に行う重要な作物となっていった。
羽地朝秀と同様に蔡温と儀間真常も琉球の五偉人に称えられており、琉球の歴史を語る上でその業績には非常に高く評価されている。
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