首里城正殿の御庭
御庭(うーなー)
首里城正殿の前の広場を「御庭(うーなー)」と言い、琉球王国時代においての重要な中庭である。
正殿の前にどーんと広がる光景はなんとも壮大な印象を受ける。
「御庭(うーなー)」とは、沖縄の言葉で「広場」をさし、年間を通して国王の即位式、重要な祭事や儀式、中国からの客人をもてなす歓待の場や外交上の重要なイベントなどを行う場所として、幅広く利用されていた場所である。
御庭から見て正面が「正殿」、南側にあたる右が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、北側にあたる左が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた広場であるのだ。
南殿は主に儀式、北殿は主に行政施設などの役割と担っていた場所である。
御庭の中央にある浮島
御庭には敷き瓦とよばれるタイルが敷かれており、色違いの列となっている。
これは儀式の際に諸官が位の順に立つために配置の目安としていたのである。
御庭の中央には浮道と言われる道が、御庭への入口となる奉神門に続いており、ここは国王や中国からの使者である「冊封使」などごく限られた人のみが通ることが許された道である。
浮道はよく見るとやや斜めになっていることが分かる。
これには諸説あり左右対称を嫌う琉球独特の美学という説がある。
さらに琉球の神話にも登場し、首里城に10つある御嶽の一つとされる首里森御嶽を結ぶための神聖な線とする説、沖縄で悪い霊はまっすぐの道しか進めないことから邪気を払うために斜めにしているという説など様々である。
また首里城は度々に焼失しており、何度か建て替えを行っているうちに斜めになってしまったという説もある。
しかしいずれにしても浮道は決して位の低い人が通ることは許されなかったとことから、身分の高い人のための道であったことは確かである。
さらに御庭の全景を見渡してみるときれいは正方形ではなくやや台形をしている。
これにも諸説あるが、これは琉球では建物を建てる際に風水を重要することから、その関係で方角を変えていったという説がある。
近世になってから首里で行われる重要な儀式は真北が重視されるようになってきており、発掘調査ではもともと御庭は正方形であることから、いずれにしても意図的にその形を変えたと考えられている。
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