冊封使のおもてなしにも使われた「龍潭」
龍潭(りゅうたん)
琉球王国時代の文化・政治・外交の中心であった首里城周辺には、琉球王家の歴史的建造物がたくさん残されており、歩いているだけでもとても興味深い場所である。
その一つに首里城公園の北側に「龍潭(りゅうたん)」と呼ばれる場所があり、周囲416メートル、1427年に造られた人工の池である。
ここは魚が多く生息していたことから、別名「魚小堀(いゆぐむい)」とも呼ばれていた。
この池は三山統一し琉球王国させた尚巴志が、中国からの使者である「冊封使」を接待するために造らせたものである。
沖縄最古の碑文「安国山樹華木記」によると、造営に際して中国に出向きその造園技術を学んできた記録が残されている。
龍潭周辺にはたくさんの四季の植物を植えて、万人の人が利用できるように工夫が施され、また人々の憩いの場としても親しまれていたものである。
龍潭では冊封使を歓待する「重陽の宴」とよばれる重要な儀式も行われていた。
皇帝の代理でもある冊封使は、数百名あまりの人を連れて琉球にやってきて、約半年間以上滞在していたという。
これは国を挙げての一大イベントであり、龍潭池では爬龍船競争が行われるなど華やかなおもてなしが行われ、当時の様子は絵画などにも描かれている。
1604年に第一回の浚渫が行われ、現在までに約6回行われている。
円鑑池と弁財天堂
円鑑池と弁財天堂
また首里城公園の円覚寺前には「円鑑池」とよばれる人工池があり、これは1502年に造られたものである。
池の中央にあるお堂は「弁財天堂」と呼ばれセットで考えられることが多い。
円鑑池は首里城の北側に位置しており、首里城や円覚寺からの湧水や雨水が排水管を通して集まる仕組みとなっており、当時知恵の深さを知ることができる。
現在の池は1968年に修復されたものであり、そののどかな風景が憩いの場として親しまれている。
弁財天堂は1502年に朝鮮から贈られた方冊蔵経を納めるために造られたものであるが、1609年の薩摩藩の琉球侵入によって破壊されてしまった。
そして1629年に円覚寺にあった弁財天像を安置して再建を果たすものの、沖縄戦によって破壊されてしまい、現在見られるものは1968年に修復されたものである。
弁財天堂のある中島には、琉球石灰岩で造られ重要文化財にも指定されている「天女橋」と呼ばれる橋が架けられている。
これは中国南部の影響を受け、石の欄干に蓮が彫刻されており、琉球王国が中国との交流を活発に行っていたことを伺い知ることができる。
また円鑑池と龍潭を結ぶ水路に架けられた橋は「龍淵橋」と呼ばれ、天女橋と同世代のものであると考えられている。
整備されているスポット
龍潭と円鑑池は目と鼻の先にあり、遊歩道が整備されており散歩をするだけでも、とても心地よいエリアである。
今でこそ整備されているが戦前までは「ハンタン山」と呼ばれ、高さ10メートル以上のアカギが生い茂る森であったという。
この遊歩道から眺める首里城もまた格別に美しく、自然を堪能しながら歩く時間が心地よいものである。
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