琉球八社の一つに数えられている沖宮の歴史

沖宮は奥武山公園の東に位置しており、琉球八社の一つである。

 

沖宮の御祭神ははじめ霊木が祀られていたという記録が残されている。

 

1713年の「琉球国由来記」には、「大昔、那覇港の海の中から不思議と光輝くものが見えてきたので、命じてそれを調べさせるとただならぬ霊木であった。

 

翌日は光輝くことがなかったのでこれを熊野権現の霊木とし、社寺を建てこの木を祀った」と記されている。

 

奧武山には3つの山があり、もっとも高い「黄金森」と呼ばれる天燈山で、沖宮が鎮座している。

 

沖宮にお祀りされているのは、奥武山を鎮まる神とも言われる天受久女龍宮王御神(天照大御神)であり、地上に天下りされた実際に存在した神であると伝えられている。

 

またこの神は農耕生産の守護神、太陽の神、養いの神として広く親しまれている。

 

その他にも天龍大御神、天久臣乙女王御神、熊野三神(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)が祀られている。

沖宮の歴史

沖宮の創建について詳しいことは分かっていないものの、琉球史料書によると源為朝公時代との記録が残されているほか、尚金福王の時代の1451年ころという説もある。

 

歴代琉球王からも崇められた場所であり、国家安穏、五穀豊穣、陸海交通安全などの祈願や、庶民たちの崇拝場所でもあった。

 

琉球舞踊の中にも人々が旅の安全を祈願していた様子が取り入れられており、「上り口説(ヌブイクドウチ)」の歌詞の一節には「沖ヌ側マディ親子兄弟連リティ別ユル…」とあり、人々も心の拠り所として深く親しまれていたことが分かる。

 

明治時代に入って神仏分離が行われると「沖山三所権現」(沖の寺)といい、神仏習合で阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音がお祀りされていたときもあった。

 

その後明治41年に那覇港の整備のため字安里の場所を移され、昭和10年に国宝に指定されている。

 

しかし第二次世界大戦の沖縄戦によって焼失してしまい、昭和36年に通堂町に仮遷座し、昭和50年8月に現在の地に御遷座されている。