源為朝の伝説が伝わる港

運天港は沖縄本島北部の今帰仁村の本部半島にある大きな港であり、ここから離島へ行くフェリーなども多数運行されている。

 

運天港は12世紀はじめ、源為朝が伊豆半島で流刑にあったため、島から逃れてきた際に途中で暴風雨に遭遇し「運を天に任せて」と漂流したことから名付けられたとも言われている。

 

また近くには為朝がしばらく住んでいたという洞窟(テラガマ)があり、今でも御嶽として大切な聖地として取り扱われている。

 

しかしこれはあくまでも伝説であり、琉球の歴史の中で運天港が大々的に登場するのは薩摩軍の侵略であり、琉球王国にとって初の対外戦争を意味している。

薩摩軍の琉球侵入と運天港

琉球王国時代、今帰仁城は北山の重要な拠点として構えていたグスクであった。

 

運天港が近い場所にあり1609年には薩摩軍の琉球侵入をする際に、まずはじめに足を踏み入れたのがここ運天港であった。

 

そして薩摩軍はまずは今帰仁城を攻め入ると、次第に南下していき最終的には首里城まで攻め入っている。

 

この薩摩軍の琉球侵入によって、徳川幕府の政権下に琉球王国は実質組み込まれていくこととなり、それ以降運天港は薩摩軍との航路に利用されるようになり、主に米を運ぶ港として機能していた。

運天港の近代の歴史

19世紀に入ると外国船もしばしば運天港を訪れており、イギリスのバジル・ホールやフランスの艦船は一か月間運天港とどまり、琉球王国と契約を結ぼうと試みたことがうかがえる。

 

またいわゆる黒船来航で知られるペリーも運天港に立ち寄った記録が残されている。

 

このころの運天港は今帰仁間切の番所(役所)が置かれて行政の中心としても機能しており、大正5年に番所は運天から仲宗根へと移ったことで、行政の中心は仲宗根へと移っている。

 

1972年の本土復帰を果たすと、運天港はふたたび重要港湾として指定されることとなった。

 

1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会会場の建設資材や来客輸送の要となる港と位置づけられたことから、港は大きな船が船舶できるように整備された。

 

今では伊是名島や伊平屋島のフェリー運航の拠点となっている。