3つのエリアから構成されていた首里「三平等(ミフィラ)」

琉球王国時代の首里は「三平等(ミフィラ)」 とよばれる三つの地域に分けて管轄がなされていた。

 

それぞれ南風之平等(ハエヌフィラ)、真和志之平等(マージヌフィラ)、西之平等(ニシヌフィラ)といい、首里のほぼ中心部にあたるのが「南風之平等」であり、真和志之平等と西之平等に挟まれ、首里城の南から北西方向に位置している。

 

1879年に明治政府が新設されるとともに、琉球では琉球処分が行われ廃藩置県が施行された。

 

その際、三平等は翌年に廃止されており、首里は新しい市町村に編成されていくことになる。

 

南風之平等には「首里殿内跡(シュリドゥンチ)」があり、ここは琉球王家ゆかりの地である。

3人の高級女神官「大阿母志良礼」

首里殿内跡

首里殿内跡

首里殿内跡は首里駅から徒歩5分、「赤田クラブ」とよばれる施設を入った右側に位置している。

 

ここは琉球王国時代における高級女神官の一人「首里大阿母志良礼」の神殿及び住居跡である。

 

尚真王の時代、つまり15世紀〜16世紀にかけて、琉球王国の神女組織が整備されている。

 

最高女神宮の位とされた「聞得大君加那志(チフィジンガナシ)」の下に、真壁(マカン)・首里(シュイ)・儀保(ジーブ)とよばれる3名の高級女神官が置かれていたのだ。

 

彼らの総称を「大阿母志良礼(オオアモシラレ)」といい、琉球国中の御嶽・神女(ノロ)を3つの区域に分けて管轄していたのである。

 

この3人の「大阿母志良礼」は、聞得大君を補佐して国王の長寿、国の繁栄、五穀豊穣、航海安全などを祈願する役割があった。

 

首里大阿母志良礼は主に首里の南風之平等とよばれるエリアを管轄し、南風原、大里、佐敷、知念、玉城などのノロたちを従えていたといわれている。

 

三年に一度、旧暦の九月に国王は聞得大君を従え首里殿内の火の神(ヒヌカン)で、自ら豊作を祈願することが行事であった。

 

また首里殿内跡近くには、三平等殿内を支配する「聞得大君御殿」があり、国家の重要な祭事が行われる場合には、聞得大君加那志とともに行われていたのである。