琉球王府も利用していた仲之川
仲之川
首里城周辺の金城町には、川「カー」とよばれる井戸が、今でもたくさん残されている。
これはかつて人々の重要な生活用水であったり、琉球王府にとっても大切な資源であったものである。
そこで今回は首里城界隈にある川「カー」について紹介していきたい。
石畳道の途中にある仲之川は沖縄の言葉で「ナーカヌカー」といい、那覇市の指定文化財に井戸である。
東に金城大樋川、西に寒水川樋川がありその中間にあったことからこの名が付けられた。
この川は水質や水量ともに非常に優れており、日照りが続いても枯渇することがなく、雨の日でも濁ることがなく、付近の住民たちの大切な生活用水であった。
仲之川は琉球王国時代において、首里城内の水が不足しているときには琉球王府にとっても重要な御用水となっていたのである。
1863年6月に大雨によって井戸は破壊されてしまい、宮城筑登之親雲上をはじめとする百姓45人が資金を捻出しあい、王府に願い出て修理を行いこのとき修理をした百姓には位を賜ったという。
この由来は石碑に刻まれ沖縄戦で破壊されるまで、近くに建てられていた。
2つの共同井戸
金城大樋川
金城大樋川は金城エリアの重要な共同井戸であり、湧き水とは異なり急ながけの下から2つのかけ樋で、岩盤の奥の水脈から地下水を引き出している形式をもつ。
その前には約10uの石積みがあり半月型の貯水池があり、その前には石積きの広場が作られ南側には排水溝がある。
樋川の周囲の3方は、土留めの石積みがなされ、特に背後は4段にわけてがっちりと積まれている。
ここはかつて生活用水として人々の生活を支えていた場所であり、水桶を持って各家庭に持ち帰っていた場所である。
金城大樋川の東にある現集会所は、かつてフィージャーモーとよばれ、坂道を上下する人馬が樋川の水で喉を潤し、一息つく場所であった。
広場から石畳道を挟んだ東側には、薩摩に学び沖縄で最初に和紙をすいた大見武築登之親雲上の屋敷跡で、17世紀末ごろにこの樋川の水で和紙が作られたようである。
もう一つ寒水川樋川は村の共同井戸として、同じく住民の大切な生活用水であった。
寒水川とは「清水のわく井戸」という意味を持ち、樋から落ちてくる水は飲料水、下に溜まった水は洗濯、台所などの水に、溢れた出た水は農業用水として活用されており、まさに古来の人たちが水を大切にしていることを伺えるスポットである。
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