円覚寺跡の歴史

琉球王国時代、首里城の周辺には王家ゆかりの重要な殿や屋敷などが数多く点在しており、まさに琉球王府に相応しい景観を織り成していた。

 

道もきれいに整備され、それは今もその一部が残されている。

 

その一つが現在首里城公園の中にある円覚寺跡である。

 

首里城周辺に数多くあった仏教の寺院や御殿の中でももっとも大きい規模を誇り、まさにそれを代表する存在であったのだ。

 

昭和8年に円覚寺伽藍として国宝に指定され、総門前には円鑑池やハンタン山の緑に囲まれ厳かな雰囲気のある寺院であったが、その全てを第二次世界大戦で焼失している。

 

しかし1968年からスタートした復元作業によって、県指定文化財の総門、石垣、右脇門、国指定重要文化財の放水池が見事によみがえっている。

 

お寺そのものの姿は今では見ることができないが、今でも門前に多くの人が手を合わせる光景がなんとも印象的であり、人々の心の拠り所となっている。

 

現在では「山門」の復元計画が進められており、2018年ころの完成を目指している。

 

この山門は琉球随一の山門と言われており、その復元が期待されている。

琉球随一の寺院であった円覚寺跡

円覚寺は琉球随一の寺院で第二尚氏王統の菩薩寺であり、臨済宗の総本山として役割を担っていた場所である。

 

山号を天徳山といい、琉球黄金時代を築いた尚真(しょうしん)王が、父王尚円を祀るため、1492年から3年の歳月をかけて1494年に建立したものである。

 

開山住持は京都南禅寺の芥隠和尚で、建築手法は鎌倉の円覚寺にならい禅宗の七堂伽藍の形式を備えて、寺の面積は約3560uであった。

 

琉球建築を見事に取り入れた仏殿には貴重な装飾がなされ、伽藍は西に面し前面中央に総門と放生池があり、放生橋、山門、仏殿、龍淵殿が一線上に配置されていた。

 

放生橋には四枚の琉球石灰岩の板石が使われ、特に牡丹、蓮華、獅子などの浮き彫りの彫刻が施されている。

 

沖縄石彫美術の傑作とも言われ、1498年に造られたものである。

 

この放生橋は沖縄戦で焼失することがなかったため、往時のままの姿を今に伝える貴重なものとなっている。