伝統工芸品の一つ「琉球漆器」

琉球漆器は沖縄県の伝統工芸品の一つであり、1974年には沖縄県指定伝統工芸品に、1986年には経済産業大臣指定伝統的工芸品となっている。

 

琉球漆器のはじまりについて、15世紀にポルトガルの外交官が記した「東方諸国記」には、沈金を用いた漆手筥(はこ)についての記録が残されており、このころから既にはじまっていたと考えられている。

 

また琉球政府が記した「歴代宝案」には、中国や東南アジアとの外交記録が書かれており、周辺諸国への進貢品として漆工品が用いられていた記録がある。

 

琉球漆器の製造がはじまった詳細時期についてはっきりとしてはいないものの、15世紀の尚巴志王の時代から漆器または漆工が存在していたと推測される。

 

琉球は中国をはじめとする中継貿易を盛んに行っており、中国や日本への貢ぎ物として発達していったと考えられている。

 

1609年に琉球王国が薩摩軍の侵攻を受けて、事実上の日本国に組み込まれていくと、琉球王府は直営としての「貝摺奉行所」とよばれる漆器の製作所を設置しており、漆器の生産の拡充を図ったのである。

 

貝摺奉行所で生産されたものは中国風のデザインに仕上げられており、王府や将軍家への献上品、外交用の贈答品、民間交易品を制作していた。

 

また琉球貴族たちの生活の中にも使われるようになり、宮廷舞踊や冊封使を歓待するための器としての役割も果たすようになった。

 

このころから国内貿易品としてだけではなく、国内振興政策の一環として産業転換していくようになり、漆器の素材の栽培から生産まで、一連の流れの体制が確立していた。

明治以降の琉球漆器

明治時代に入り琉球処分が施行されると貝摺奉行所は廃止され、その後は民間がその伝統を継承している。

 

当時の面影はやや薄れながらも民衆向けのデザインに転換をしていき、民間産業として那覇の若狭町が生産の中心地となっていた。

 

明治期には盆、膳、椀、硯箱などが制作され、沖縄の風景や花などをモチーフとしたデザインも多く見られるようになる。

 

1902年(明治35年)には首里区工業徒弟学校を設立し、後継者の育成などにも力を入れるようになり、全国的にも琉球漆器はその名を響かせるようになった。

 

1927年(昭和2年)沖縄県立工業指導所が開設され、琉球漆器の生産の近代化が進められている。

 

しかし沖縄戦が激化する中で次第に資材不足に陥り、そのまま衰退していくこととなる。

 

戦後は駐留軍向けに土産物として少しずつ復興していき、1977年に琉球漆器事業協同組合され、現在では職人は減少傾向であるがその優美で艶やかな琉球漆器は伝統工芸品として大切に継承されている。