ミンサー織の歴史

ミンサー織りは沖縄の伝統的な織物の一つであり、その歴史は今から約400年前、17〜18世紀頃の琉球王朝時代に綿の交易記録があり、沖縄で綿花が栽培されるようになったことがその始まりである。

 

素材は木綿で、厚みがありしっかりとした織物で、どこか素朴な雰囲気がある。

 

ミンサー織はビルマ、スマトラ、ジャワからチベット、さらに中国へと伝わり、その中で独自の発展を遂げたものであると推定されているが、その詳細についてはっきりとしたことは分かってはいない。

 

さらに日本本土にも伝えられており、武具や荷物紐などに使われる縦糸と横糸で織った「真田紐」に変化していったとも伝えられている。

 

またもともと糸をきつく織り込むことを「綿(ミン)で織られた幅の狭(サー)い帯」といい、それが転じて「ミンサー」と呼ばれるようになったと考えられている。

 

産地は読谷山地方、首里、八重山地方などが良く知られており、中でも有名なのが「読谷山ミンサー」と「八重山ミンサー」である。

「読谷山ミンサー」と「八重山ミンサー」

「読谷山ミンサー」は、藍染めが基本となるが、色鮮やかな華やかな印象のあるデザインが多い。

 

一時的には衰退した時代もあったが、今は復活を遂げておりお土産などにも人気がある。

 

読谷山ミンサーは15〜16世紀ことビルマやジャワなどから技術が伝わり、王族と士族のみに許された織物であった。

 

織り地から竹べらを使い、竹串で糸を拾って幾何学的な模様を出すのが特徴で、とても可憐な花柄が施されている。

 

「八重山ミンサー」は八重山の竹富島が発祥で、素材が木綿、組織が平織りで、藍色の生地に五つのます目柄と四つのます目柄が織り込まれている。

 

これは五つと四つの絣に「いつ(五つ)の世(四つ)までも」という想いが込められており、その周りには小さなます目が両脇に並んでおり、これはムカデの足をイメージしたものである。

 

この二つの意味を合わせ、琉球王朝時代に女性が好意を抱く男性に、「いつの世までも足しげくお通い下さい」という意味を込めて贈ったものであるとも伝えられている。

 

また藍を繰り返し染めていくことから「愛を重ねて」という意味があったとも言われている。

 

伝統工芸品でありながらも男女のご縁を表現している帯は、当時の人々の思いもまたそこに刻まれておりその奥深さを知ることができる。

 

今では主に竹富島、西表島、石垣島などで一つ一つ丁寧に手作業で作られており、帯製品と加工品の2つのジャンルに大別される。

 

インテリア、バッグ、財布、衣服などのファッションなど幅広く使われており、現代の生活にアレンジされたモダンな雰囲気のものも増えてきている。