次第に荒廃していった首里城

首里城といえば、琉球王国を代表するまさにシンボルともいえる歴史建造物であり、まさにその時代における経済、政治、文化の中心的な役割と担っていたお城である。

 

首里城はかつての貿易の拠点であった那覇港を一望できる丘の上に立ち、外城、中城、内城の3つの地区から構成されていた。

 

当時中国と活発に交流を行っていたことから、中国の文化の影響を受け、華やかな琉球文化を築いていたのである。

 

しかし約450年続いた琉球王国は、日本本土が明治期を迎えると廃藩置県や琉球処分が行われ、国王は追放されるとともに日本政府のもとに沖縄県として新しくスタートすることとなった。

 

沖縄県となった後は日本陸軍の軍営や学校なども利用された。

 

しかしもはや王宮ではなくなった首里城は、急速に荒廃が進み、老朽化が激しくなっていった。

 

そして第二次世界大戦のアメリカ軍の攻撃によって、首里城は焼失してしまい、それと同時に多くの琉球王国時代の貴重な文化財なども失っている。

 

戦後は琉球大学が置かれていたが、首里城の復元は沖縄県民の願いでもあり、戦後の混沌とした時代の中における希望でもあったのである。

首里城復元への歩み

1958年(昭和33年)に守礼門が再建されたことをきっかけに円覚寺門などの周辺建築から再建が進められた。

 

1972年(昭和47年)に国の史跡に指定され城の入り口の歓会門と周囲の城郭が再建され、1973年(昭和48年)に「首里城復元期成会」が結成されこの時期から本格的な首里城復元への道を歩むこととなる。

 

1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると、1982年(昭和58年)に第2次沖縄振興開発計画に整備されることが検討された。

 

1986年(昭和61年)には首里城跡を国営沖縄記念公園首里城地区として整備されることが閣議決定された。

 

1989年(平成元年)から正殿遺構の発掘調査が行われ、昭和初期の資料やその時代に生きていた人に話を聞きながら復元作業が進められていったのである。

 

当時の建築技術に携わった職人を集めたり、話しを聞くこともあった記憶がバラバラで難航を極めたこともあったという。

 

1992年(平成4年)11月には正殿を中心とする建物や、城壁、門などが再建され首里城公園として開園した。

 

2015年(平成27年)には5000万人もの来場者を達成し、今では沖縄を代表する観光地となっている。