当時のコザ市の様子

コザ暴動が発生した1970年代、当時のコザ市はベトナム戦争から帰還もしくは一時休暇の兵士が多数おり、戦争で疲れた兵士たちは基地の外でお酒や薬物などにおぼれることも少なくはなかった。

 

ベトナム戦争が本格化してからの沖縄での米軍による犯罪率は高くなる一方であり、そのうちの大半がコザ市で発生している。

 

当時アメリカの支配下にあった沖縄では、米軍の引き起こした事件の逮捕権や裁判権などの権利はすべてアメリカ軍当局に委ねられており、殺人や強盗などの明らかな事件性があるものであっても、証拠不十分として無罪になることも少なくはなかった。

 

さらに加害者が基地に逃げ込んでしまえば、沖縄警察は捜査をすることができず、実際に起きた事件は報告されているものよりもかなり上回るものと考えられている。

 

このような状態は、コザ市民、さらには沖縄県民の怒りをかっていた。

 

そんな中で暴動事件は発生したのである。

コザ暴動の詳細

コザ暴動とは1970年(昭和45年)12月20日の未明、アメリカ支配下の中、コザ市(現沖縄市)で米兵が酔っ払い運転によって歩道を歩いていた女性を圧殺した事件である。

 

これをきっかけに数千人の人々が米軍関係施設や80台におよぶ車両を焼き討ちしている。

 

つまり交通事故をきっかけに、その背景にあるアメリカ支配下における不満や、米兵によって繰り返される事件や事故、人権侵害などの常々の不満を爆発させることとなった。

 

この事件はコザ暴動、コザ事件、コザ騒乱などと呼ばれる。

 

この事件が発生すると数百人集まっていた群衆は暴徒化し、アメリカ軍の車両はナンバープレートで識別されていたため、米軍の車が走行してくると妨害をしたりと事態は拡大していった。

 

さらに軍警察や警察官は事態を収束させるために、応援部隊を要請するとともに、警察は宣伝カーを使い繰り返し民衆に帰宅を呼び掛けた。

 

そして事件同日の午前7時半頃までにようやく暴動は収束に向かった。

 

この事件の特徴は特別な指導者がいたわけではなく、自然発生的に起こったものである。

 

しかしその翌年、第2次コザ事件ともよばれる暴動事件が再度発生している。

 

前年に続いて同じくコザ市(現沖縄市)で発生した暴動で、当時コザ市の歓楽街は黒人と白人で人種ごとに二分されていた。

 

1971年8月17日、午前0時半ころ黒人グループ約50人が、白人御用達のバーやクラブを襲撃した事件である。

 

前回の内容とは事件的な要素は異なるものの、白人・黒人間の人種差別問題も絡んだ複雑な事件であった。

コザ暴動と本土返還

コザ暴動は、アメリカ支配下に置かれた沖縄県民たちの不満そのもの爆発される結果となり、これはまさに沖縄本土返還の士気を高めるきっかけとなった。

 

まさに本土返還前に起きた歴史的な事件といえる。