プライス勧告と反対運動

1956年(昭和31年)、アメリカ下院軍事委員会は、沖縄に「プライス勧告」とよばれる沖縄の軍用地問題に関する報告書を提出している。

 

これはプライス議員をはじめとする調査団を沖縄に派遣して調査結果をまとめたもので、この議員の名前をもとに付けられた名称である。

 

この勧告は沖縄基地の重要性や必要性を述べたもので、軍用地料を10年分一括で支払うことを提示し、これまで占有していなかった土地買い上げの必要を勧告し、軍用地の拡張を求めてきたのである。

 

しかし、地主の大反対を受けて当時の立法院は「土地を守る四原則」を決議し、県民は怒りを爆発させ島ぐるみの反対運動、いわゆる「島ぐるみ闘争」へと発展をしていったのである。

 

この「土地を守る四原則」とは「一括払い反対」、「適正補償請求」、「損害賠償請求」、「新規接収反対」などの沖縄の要求に対して、プライス勧告は軍用地料金の算出を譲歩しただけにとどまり、沖縄の大半の主張はほとんど聞き入れられることがなかったのである。

 

1956年6月20日、プライス勧告の全文が公開されると、全沖縄64市町村のうち56市町村各地で反対運動の大会が開催され、約30万人の住民が参加したのである。

 

約10年にわたって住民は軍用地に対する怒りを持っていたが、県民全体が運動を起こしたことはまさに沖縄にとって大きな一歩であった。

 

それ以降沖縄では激しい抗議活動が行われ、島全体が怒りを覚えることとなったのである。

交渉の結果と反対運動の意義

交渉の結果、土地問題は「当初評価額の約6倍の地代を支払うこと」と、「原則毎年払いで、希望者のみ10年分の先払いを認める」など一定の妥協点が見えた結果で決着がついたのである。

 

これは住民にとってとても大きな一歩となり、アメリカ側を動かせたことは沖縄県民にとって大きな自信となり、これがやがて祖国復帰運動へとつながることとなったのである。

 

しかしアメリカ側にとって、紆余曲折ありながも結果的に土地の使用権がルール化されたことのメリットも大きかったといえる。

 

まさに島ぐるみ闘争は、祖国復帰運動の原点となる運動といえる。