歴史(近代沖縄)記事一覧

旧海軍司令部壕は、地上戦が行われた沖縄戦において、大日本帝国軍の司令部があったところである。1944年に山根部隊(第226設営隊)によって、重要な軍事拠点となる小禄飛行場を守ることを目的として造られたものである。この場所が選定された理由には、小禄飛行場に近い高台に位置しており見晴らしが良かったこと、それゆえに敵が攻めてきてもすぐにそれを把握することができることなどが挙げられる。実際に沖縄戦が行われ...

沖縄戦は1945年3月26日から始まった、太平洋戦争末期に行われた戦争で同年の6月20日ないし6月23日に終了している。南西諸島に上陸したアメリカ軍を率いる連合軍と、日本軍との間で行われた戦いで、アメリカ軍の目的は日本本土を侵略するための航空基地の確保にあった。沖縄戦は一般住民を巻き込んだ激しい地上戦であり、20万人以上もの犠牲者が出ており、そのうちの9万4千人が一般住民でありその戦闘の激しさを物...

沖縄南部、糸満市にある「ひめゆりの塔」と併設されている「平和祈念資料館」は、沖縄戦の激しさやその悲惨さを今に伝える、いわばシンボルとして知られている。「ひめゆりの塔」は激しい地上戦が繰り広げられる中、その犠牲者は若い学生までにも及んだのである。「ひめゆりの塔」は、そんな沖縄戦で犠牲となったひめゆりの学徒・教師の鎮魂のための慰霊碑として沖縄戦の翌年1946年に建立されたものである。女学生たちは沖縄陸...

那覇空港から車で約1時間、沖縄県のほぼ中心に位置する金武町には「長寿の泉」と伝わる「金武大川」とよばれる場所がある。ここは1992年(平成4年)の5月7日に、金武町の指定文化財に登録をされている歴史的名所である。沖縄では水は神の宿る神聖な場所として考えられており、井戸水や水の湧き出る近くには、御嶽とよばれる拝所が設けられていることも多いものである。ここ金武大川は並里部落の中央に位置しており、地元の...

「ソテツ地獄」とは、大正末期から昭和初期において沖縄の経済的な困窮を指す言葉である。当時の主食であったサツマイモや米すらも確保できないような状況に陥り、有毒性の「ソテツ」で飢えをしのいだことからこのように呼ばれ、「沖縄朝日新聞」の比嘉栄松記者が命名したものである。ソテツには猛毒が含まれており、調理を誤ると死に至るほど有毒性の強い植物で、これを常食として調理しなければならないほど食べ物に困っていたこ...

琉球王国が誕生してから約400年あまり、いよいよ幕引きとなる歴史的に大きな出来事が起こる。それこそが明治政府による、沖縄に対する強行的な廃藩置県である。1871(明治4)年に廃藩置県を実施、翌年には琉球国を廃して琉球藩とし琉球国王を「藩王」とした。これによって琉球藩は、中央政府の管轄とされることとなったのである。しかしこれは長い間独自の歴史を歩んできた琉球王国にとって、混乱は必至であった。これまで...

万座毛は恩納村役場の北西に位置する岬であり、沖縄を代表する景勝地で多くの観光客が訪れるスポットである。隆起した珊瑚岩から成る高さ約20メートルの絶壁に、荒波が打ちつけ、象の鼻のような形をした岩が印象的なスポットである。万座毛とは琉球王国時代、尚敬王が、「万人が座するに足る毛(一万人が座れる広い毛(原っぱ))」という言葉を使い、「万座毛」と表現をしたことに由来すると言われている。今でもそれは変わらず...

1609年に琉球王国は島津氏の率いる薩摩軍によって侵略され、これは琉球王国にとってはじめてとなる対外戦争でもあった。対外戦争に慣れていなかった琉球王国はあっという間に侵略されてしまい、琉球王国は存続しながらも、事実中は江戸幕府の支配下に置かれことになるのである。江戸幕府は琉球が清との交流を深めていたことに着目をし、琉球貿易は薩摩藩が監督することになり、琉球王国を貿易を介して間接的に支配していったの...

沖縄は今でこそ「ゆいレール」とよばれるモノレールが那覇空港と首里城を結んでいるが、いわゆる鉄道は走っていない。戦前までは最後まで残った軽便鉄道(通称ケイビン)と呼ばれていた鉄道も、沖縄戦によって壊滅的な被害を受け、戦後は復興されることなく廃止されており、ゆいレールはまさに50年以上もの空白の時間を超えて開通したのである。しかし戦前にはケイビンをはじめ、路面電車・馬車鉄道など沖縄には様々な鉄道が走っ...

沖縄には昔から各地に「馬場」とよばれる場所があり、その数は200前後とも言われている。琉球競馬は農村における民族行事や畜産奨励などために行われており、琉球王国時代において士族の楽しみの一つでもあった。競馬のことを「馬勝負(ンマスーブ)」、「馬揃い(ンマズリー)」などと呼び、現代の競馬とは異なり速さで勝負を決めるのではなく、乗り手の振る舞いや馬具の華やかさなども競い合っていた。つまり馬のリズムや姿勢...

明治新政府が樹立され1879年(明治12年)琉球処分が行われると、沖縄にも火車と呼ばれる汽船が就航するようになった。1884年(明治17年)には鹿児島と大阪を結ぶ定期航路が開設された。そして次第に港は整備され、1907年(明治40年)には本格的な湾岸工事が開始されたのである。当時の奈良原知事は港の整備は主要事業であると考え、大正時代初期には1200トン級の船舶3隻が横付けできる桟橋を架設した。19...

沖縄最北端の集落として知られているのが「奥集落」である。人口はわずか200人ほど、那覇の中心部から車で約3時間かかる秘境である。細い路地に古い瓦屋根の民家が密集しており、自然豊かなのどかな場所である。奥集楽の入り口近くには「奥共同売店」とよばれる売店がある。コンビニエンスストアやスーパーなどがない奥集落にとって、ここはなくてはならない生活必需品を購入する上で、とても貴重な場所であるのだ。この売店は...

明治政府の琉球処分によって、それまで長い間琉球王国として栄えてきた歴史に幕と閉じることとなるが、日本本土とは異なり独自の歴史を歩んできたため一筋縄でいくものではなかった。実際には法整備は日本本土、さらに世界と比べてもかなり遅れた体制となっていたのだ。しかし新しい時代を迎えると、先島諸島で人頭税の廃止を訴える住民運動が活発化してきたことをきっかけに、沖縄各地でもこの旧制度に対する廃止を求める運動が盛...

旧慣温存政策とは、1879年に沖縄県が設置された後にとられていた統治方針であり、1879年(明治12年)〜1903年(明治36年)まで続いた。新しく置かれた県庁には、県外からの職員が派遣されたが、沖縄では急激に日本化することへの不満が多く募っていた。当時初代沖縄県知事に任命された鍋島直彬は、中央政府から任命された人物であり、県庁の職人の大半も沖縄県外の人物であった。沖縄県民は、沖縄は日本の本土であ...

石垣港から約400メートル、市街地にある宮良殿内は「ミヤラドゥンチ」もしくは「メーラヤラドゥヌジィ」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。これは琉球王国時代の1819年に宮良当演が宮良間切の頭職(八重山最高の役職)に任命されたことを記念して造られたものである。首里の貴族の屋敷をもとに造られたものであるが、当時の琉球王国時代において厳しい身分階級があり、身分に応じた屋敷を構えることが一般的であっ...

沖縄本島南部、南城市玉城字糸数にある糸数壕は糸数アブチラガマとも呼ばれ、長さ270メートルの自然洞窟である。沖縄戦の際に糸数集落の避難指定壕で、日本軍の陣地壕や倉庫として使用されていた場所である。しかし戦争が激化した昭和20年4月以降、南風原陸軍病院の分室となり、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊などが看護活動を行っていた。当時ガマ内は1000人以上の負傷兵で埋め尽くされ、学徒隊たちは不眠不休で看護活動...

アーニー・パイル記念碑は、沖縄北部の伊江島にある米軍の従軍記者として有名だったアーニー・パイルの慰霊塔である。彼はアメリカ・インディアナ州の農家出身であるが、大学卒業直前に退学してジャーナリストとしての道を歩むこととなる。1944年には、ジャーナリストとして最高の名誉とされるピューリッツアー賞を与えられている。伊江島に上陸すると必死に戦う米軍の取材を続けるべく行動を共にし、沖縄戦が激化する中でも最...