沖縄南部にある糸数壕

沖縄本島南部、南城市玉城字糸数にある糸数壕は糸数アブチラガマとも呼ばれ、長さ270メートルの自然洞窟である。

 

沖縄戦の際に糸数集落の避難指定壕で、日本軍の陣地壕や倉庫として使用されていた場所である。

 

しかし戦争が激化した昭和20年4月以降、南風原陸軍病院の分室となり、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊などが看護活動を行っていた。

 

当時ガマ内は1000人以上の負傷兵で埋め尽くされ、学徒隊たちは不眠不休で看護活動や水汲みなど懸命に働いていたという。

 

軍人はガマのもっとも奥の安全な場所に隠れ、内部には軍人専用の慰安所も設けられていた。

 

しかし昭和20年5月25日、南部搬退命令が発令されると病院が搬退し、糸数の住民や歩けず生き残った負傷兵の居場所となり混乱状態が続いていた。

 

薬なども不足し、治療ができない負傷兵も多数いたが放置されることも多かったという。

 

そんな中、米軍は空気などから火炎放射攻撃を行い多数の死者を出した。

 

現在でもそのときの黒焦げの跡や爆風の跡が痛ましくも残されている。

 

そして昭和20年8月下旬、米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出ることになるのである。

ガマ内部の見学

ガマ内部は入り口付近に脳障患者、破傷風患者、ベッドなどがあるほか、治療室、食料衣料倉庫、カマド、監視所などがある。

 

現在ではこの悲惨な歴史を学ぶべく、修学旅行など年間15万人ほど訪れている。

 

個人でも見学は可能でありほぼ全域が公開されているが、非常用以外の照明が無いため漆黒の闇が広がり、当時のままの状態を感じることができる。

 

内部はややすべりやすい場所があったり、割れたビンの破片なども残されていることから運動靴など歩きやすい靴がおすすめであり、洞窟内はとても暗いことから手袋、ヘルメット、懐中電灯なども必須である。

 

このガマは悲惨な歴史を伝える場所であるが、このガマによって生き延びた人がいたことも事実である。

 

このガマで亡くなられた方の遺骨は戦後、糸数市民や関係者によって集められ、「国立沖縄戦没者墓苑」に合祀されている。