ジャーナリストとしてのアーニー・パイル
アーニー・パイル記念碑は、沖縄北部の伊江島にある米軍の従軍記者として有名だったアーニー・パイルの慰霊塔である。
彼はアメリカ・インディアナ州の農家出身であるが、大学卒業直前に退学してジャーナリストとしての道を歩むこととなる。
1944年には、ジャーナリストとして最高の名誉とされるピューリッツアー賞を与えられている。
伊江島に上陸すると必死に戦う米軍の取材を続けるべく行動を共にし、沖縄戦が激化する中でも最前線からアメリカ本土に報道し続けていた人物である。
懸命に戦う兵士たちに気軽に話しかけ、兵士の目線に立ちながら情緒的に取材を続け、第二次世界大戦によって一躍有名になった人物である。
彼にとっての戦争の道具はノート、ペン、タイプライターであったとも言われる。
また兵士の家族からもアーニー・パイルは絶大な支持を受けており、戦後70年経過した今でも彼に対する畏敬の念が強いものである。
アーニー・パイルの死
しかしそんな取材の最中、1945年4月18日に米第305連隊と行動を共にしていた中、日本軍の機関銃弾が左こめかみに命中し、ほぼ即死で倒れ取材中に命を落としている。
アーニー・パイルは常に戦う兵士に寄り添った取材を行い、兵士の悲しみ、不安、喜び、苦しみなどありのままの姿を伝えてきた人物であり、記念碑は彼を偲び米軍によって建立されたものである。
当時、第33代アメリカ合衆国トルーマン大統領も、アーニー・パイルの死に特別な声明を発表している。
記念碑の周辺の芝生はとてもきれいに整備されており、階段を数段登った山型の場所に記念碑が建てられている。
またタイルも敷き詰められ、彼の名前が刻まれている。
彼が亡くなった後、遺体はヘルメットをかぶせたままの状態で粗末な十字架の下に埋葬されていただけだったため、沖縄本島の陸軍墓地に埋葬された後、ホノルルのパンチホール国立墓地へ移されている。
毎年彼の命日である4月18日前後の日曜日には、沖縄に在住するアメリカ人が多数参列をして慰霊祭が行われている。