沖縄民権運動の父・謝花昇
明治政府の琉球処分によって、それまで長い間琉球王国として栄えてきた歴史に幕と閉じることとなるが、日本本土とは異なり独自の歴史を歩んできたため一筋縄でいくものではなかった。
実際には法整備は日本本土、さらに世界と比べてもかなり遅れた体制となっていたのだ。
しかし新しい時代を迎えると、先島諸島で人頭税の廃止を訴える住民運動が活発化してきたことをきっかけに、沖縄各地でもこの旧制度に対する廃止を求める運動が盛んに行われるようになっていった。
この人頭税とは琉球時代の1637年に制度化された、15歳〜50歳までの男女を対象に、年齢や移住地などで税率が決められたもので高い税率が問題となっていた。
1890年代に入ると沖縄民権運動の父と言われた謝花昇を中心に、県政の改善を求める声が高まっていった。
謝花昇は沖縄も他の県と同じように参政権を与え、土地整理をするように訴え、それがきっかけとなって沖縄も法整備が進められていくこととなった。
実際に問題となっていた人頭税は1903年に第8回帝国議会にて廃止されている。
そして日本本土とは10年〜25年以上も遅れて徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが施行されていったのである。
明治政府による皇民化政策
また明治政府は皇室への忠誠や同化を指導した政策を目指す、いわゆる「皇民化政策」に力を入れていくようになった。
天皇への忠誠心を高めるべく琉球八社の一つである波上宮を官幣小社にして、沖縄の聖地ともいえる御嶽や拝所の整備も進めて、敷地内に新たに鳥居や拝殿などを作り、神道の普及につとめたのである。
また富国強兵を目指していた明治政府は、1873年に徴兵制を施行しているが、沖縄にも約25年遅れて1898年に施行している。
皇民化政策を進めてきた中で、沖縄の官人たちは沖縄県民も日本国民と同じように扱われることに歓迎する声がある一方で、一般市民は標準語を話せない人が多かったり本土の人から差別的な目で見られることもあり、徴兵を逃れようと逃亡する者も少なくはなかった。
しかし戦場で国のための命を落とすこともまた真の国民であると日本政府は褒めたたえ、日露戦争の頃になると沖縄もようやく日本人として歩み出していくこととなったのである。