明治政府による廃藩置県

琉球王国が誕生してから約400年あまり、いよいよ幕引きとなる歴史的に大きな出来事が起こる。

 

それこそが明治政府による、沖縄に対する強行的な廃藩置県である。

 

1871(明治4)年に廃藩置県を実施、翌年には琉球国を廃して琉球藩とし琉球国王を「藩王」とした。

 

これによって琉球藩は、中央政府の管轄とされることとなったのである。

 

しかしこれは長い間独自の歴史を歩んできた琉球王国にとって、混乱は必至であった。

 

これまで中国をはじめとする諸外国との外交を活発に行ってきた琉球王国とって、中国(清)との冊封関係を断ち切ることはそう簡単にはできないのが現状であったのである。

 

そのため、日本政府は琉球に対して明治の年号使用や、藩王に上京するように勧告をしたものの、それに応じることがなかった。

 

そこで1875年(明治8年)に松田道之元内務大丞を派遣して説得を試みるものの、それでも態度を変えようとしなかったため、1879年(明治12年)に、さらに兵や警察など国の関係者600人を派遣し、武力的威圧のもとで琉球の廃藩置県を断行したのである。

 

そして3月27日に首里城の明け渡しを命じ、琉球王国は実質的に滅びることとなり、沖縄県としての歴史をスタートすることになったのである。

沖縄県としての幕開け

しかし沖縄県となっても、中国(清)に救済を求めるなど、日本の領土の支配下に置かれる計画はスムーズには進まなかった。

 

日本政府は沖縄本島を日本領とし、先島諸島を清領とする先島諸島割譲案を提唱し、清は仮調印の段階まできたものの、最終段階で「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」と清国の李鴻章が調印を拒否したことにより、先島諸島割譲案の締結には至らず、結果的に琉球に対する日本の領有権が確定したのである。

 

しかし沖縄県となっても法整備は進まず、事実上は琉球時代の体制が維持されたままであった。

 

また県内各地で旧制度の廃止に反対する運動がおこり、混乱状態がしばらく続いていた。

 

結局徴兵制、衆議院議員選挙法、地租改正などは、本土から10年以上も遅れて施行されることとなった。

 

またこれらと並行して、沖縄の聖地と言われる御獄や拝所は整備が勧められ、拝殿や鳥居を設置するなど神道の布教も進められていったのである。

 

すべて整備するのに約25年以上も歳月を要しており、沖縄にとって琉球王国から沖縄県へと舵を切ることがいかに大変であったかを象徴しているといえる。