島津氏による琉球侵略
1609年に琉球王国は島津氏の率いる薩摩軍によって侵略され、これは琉球王国にとってはじめてとなる対外戦争でもあった。
対外戦争に慣れていなかった琉球王国はあっという間に侵略されてしまい、琉球王国は存続しながらも、事実中は江戸幕府の支配下に置かれことになるのである。
江戸幕府は琉球が清との交流を深めていたことに着目をし、琉球貿易は薩摩藩が監督することになり、琉球王国を貿易を介して間接的に支配していったのである。
薩摩藩は清との君臣関係にあった琉球王国を武力によってのっとり、江戸幕府に隠れて密貿易を行い富を蓄えていったのである。
琉球王国を事実上の支配下に置くこと成功した薩摩藩は、貿易を通して富を確保できるようになっただけではなく、海外情勢についても介入できる立場を確立したのである。
琉球王国と対外情勢
幕末のころになると、琉球王国には次々と欧米の船がやってくるようになり、航海の中継地として開国を要求するようになっていった。
1844年にはイギリスとフランスが通商を求めて、琉球を訪れている。
そして薩摩藩は幕府に干渉して開国に対応するように求め、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年に琉球をイギリスとフランスに開港したのである。
1853年には、米国のマシュー・ペリーが日本に来航する前に琉球を訪れており、その際に首里城までに足を運び琉球王府に親書を渡している。
1854年3月31日に日米和親条約を結び日本は正式に開国すると、その帰りにペリーは首里城を訪れ1854年7月11日に琉米修好条約を結んでいる。
1867年に開催されたパリ万国博覧会では、薩摩藩が「日本薩摩琉球国太守政府」という名で、幕府とは別に出店をしたことから江戸幕府から抗議を受けたが、これはまさに薩摩藩の勢力がいかに大きいものであったのかを知ることができる。
しかし清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことによって琉球を中継貿易にすることの意義が薄れてゆき、日本にも清にも属していた琉球王国の体制そのものも崩壊していくことになっていくのである。