平和について考える「ひめゆりの塔」と「平和祈念資料館」

沖縄南部、糸満市にある「ひめゆりの塔」と併設されている「平和祈念資料館」は、沖縄戦の激しさやその悲惨さを今に伝える、いわばシンボルとして知られている。

 

「ひめゆりの塔」は激しい地上戦が繰り広げられる中、その犠牲者は若い学生までにも及んだのである。

 

「ひめゆりの塔」は、そんな沖縄戦で犠牲となったひめゆりの学徒・教師の鎮魂のための慰霊碑として沖縄戦の翌年1946年に建立されたものである。

 

女学生たちは沖縄陸軍病院に動員され、必死に負傷した軍隊の看護をし、また目の前で多くの大切な人を失いながら、戦争終結まで必死に戦い抜いたのである。

 

そして戦後生き抜いた同窓生たちによって「戦争の悲惨さや愚かさを伝えたい」と考える人たちが立ち上がり、平和であることの大切さや命の尊さを後世に伝えている。

 

ひめゆり平和祈念資料館は1989年に開館した資料館で、6つの展示室で構成されている。

 

内部には、沖縄戦で犠牲となったひめゆり学徒227名の遺影や遺品が展示されているほか、展示物や資料だけではなく実際に戦争を生き抜いた人たちからの証言映像や手記なども見ることができ、当時のリアルな実体験を学ぶことができる。

 

またひめゆりの塔の近くには、実物大のガマよばれる伊原第三外科壕があり、内部が公開されており、地下壕がいかに狭く苦しいものであったのか、その悲惨さを知ることができ、まさに平和について考える場所でもある。

「ひめゆり学徒隊」の歴史

「ひめゆり」とは県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の女子学生たちの総称ことを指す言葉で、戦後になって「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになった。

 

1945年の3月24日、職員を含む約240名が沖縄陸軍病院の看護に従事していたが、次第に戦闘が激化してくると、陸軍病院は負傷した兵士を置き去りして撤退するほど病院としての機能は失われていった。

 

そして地上戦が激化してくると地下壕から出ることすらできなくなったが、地下壕すらも激しい攻撃を受け、中にいた人が9割近く犠牲なった人がいるほど痛ましいものであった。

 

まさに沖縄戦を語る上で欠かせない、現代にその悲惨さを伝える歴史的な出来事といえる。