「ソテツ地獄」とは
「ソテツ地獄」とは、大正末期から昭和初期において沖縄の経済的な困窮を指す言葉である。
当時の主食であったサツマイモや米すらも確保できないような状況に陥り、有毒性の「ソテツ」で飢えをしのいだことからこのように呼ばれ、「沖縄朝日新聞」の比嘉栄松記者が命名したものである。
ソテツには猛毒が含まれており、調理を誤ると死に至るほど有毒性の強い植物で、これを常食として調理しなければならないほど食べ物に困っていたことを表している。
しかしこのような非常に厳しい状況下に置かれながらも、天災が続いたり、税はきっちり徴収されるなど、まさに県民たちは追い打ちをかけられていった。
そしてそれに嫌気がさした沖縄県民本土へ出稼ぎにいったり、海外へ移民となるものも少なくはなかったのである。
第一次世界大戦後の不況
日本は日露戦争後、不況に陥りながらも1914年に勃発した第一次世界大戦によって一時的にはアジア市場を独占するまでに経済は回復し、鉱産物、薬品、軍需品などによって、日本の工業は発展をしていったのである。
沖縄では特産物であった砂糖で経済が潤い、「砂糖成金」が誕生するほどであった。
しかしこれは長くは続かず、ソテツ地獄は第一次世界大戦後の戦後恐慌にはじまり、全国の都市はもちろん、特に農産物の暴落が激しかったため不況は農村部に大きな影響を与えた。
第一次世界大戦後、西欧はアジア市場に進出してくるようになると輸出量は激減し、国内は過剰生産に陥ったのである。
また沖縄は他の県と比べると精算基盤が弱く、沖縄の経済を支えていた砂糖の下落がはじまり、農業に大きな影響を与えたのである。
また1923(大正12)年の関東大震災や、1929(昭和4)年の世界恐慌など、相次いて災害や恐慌が続き、それは日本全体及び沖縄の人たちの暮らしを苦しめることになったのである。
行政もまた、賃金の未払いや銀行の倒産などによって財政難に陥ったが、そんな状況下においても沖縄救済論議が活発となっていった。
しかしながら具体的な成果を上げることが出来ず、不況は続き第二次世界大戦に突入していったのである。
そして沖縄戦によってたくさんの犠牲者を出すとともに経済はひっ迫していき、ようやく戦後になってアメリカの支配下に置かれながら、少しずつ回復をしていき、1960年代は高度経済成長期を迎えることとなるのである。