旧海軍司令部壕の設営

旧海軍司令部壕は、地上戦が行われた沖縄戦において、大日本帝国軍の司令部があったところである。

 

1944年に山根部隊(第226設営隊)によって、重要な軍事拠点となる小禄飛行場を守ることを目的として造られたものである。

 

この場所が選定された理由には、小禄飛行場に近い高台に位置しており見晴らしが良かったこと、それゆえに敵が攻めてきてもすぐにそれを把握することができることなどが挙げられる。

 

実際に沖縄戦が行われていた時には、海抜74メートルの丘にあったことから、「74高地」と呼ばれていた。

 

地元では「火番森(ヒバンムイ)」ともよばれ、琉球王国時代において那覇港に近いことから、外国船が来るとすぐに首里城へ伝えていた場所でもあったのだ。

 

1944年8月に着工し、12月に完成したが、沖縄戦の最中は未完成だったとも言われている。

 

全部で450メートルの長さがあるが、そのうちの300メートルが一般に公開されている。

 

豪内は迷路のように張り巡らされており、これはすべて人の手によって造られたというから驚きである。

 

当時はもちろん現代のような高度な技術はなく、兵士たちは鍬などを使い睡眠時間を削り、必死に作り上げていったのである。

 

今でも実際に手で掘った後が残されており、これだけの規模のものを作ることは、決して容易ではなかったことが想像できる。

 

このエリアには他にも多数の海軍壕があり、民間の手を借りて造られたものもある。

 

しかしここ旧海軍司令部壕は司令部があった場所であることから、民間の手を借りるどころか近づくことさえも許されなかったといわれている。

激化する沖縄戦

1945年(昭和20年)1月20日、佐世保鎮守府から大田実海軍中将が沖縄に赴任し、司令官として指揮を執ることとなった。

 

旧海軍司令部壕の中には司令官室、暗号室、作戦室、医療室などが残されている。

 

その中でも幕僚室は見どころの一つだ。

 

米軍のすさまじい攻撃は続けられ、1945年6月13日、司令官以下の軍隊は自決を遂げる。

 

幕僚室の中壁には幕僚が手榴弾で自決した、破片の痕跡が残されている。

 

また下士官室や兵員室は、兵士が休息するために使われていた場所であるが、4000名もの兵士を収容するのには小さい空間であり、立ったまま睡眠をとることも日常であった。

 

司令官は赴任してから亡くなるまでは、わずか半年であった。

 

自決する一週間前には大田司令官が送った有名な電報がある。

 

その文言こそが「沖縄県民かく戦えり」である。

 

当時の知事から沖縄戦によって県民が苦しんでいることを知った大田司令官は、県民の実情や苦しみ、困難を今自分が伝えておかなければという想いが込めれたものである。

 

「天皇陛下万歳」や「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」といった言葉はなく、ただただその現状を伝えた文言は、今でも多くの人の心に訴えかけるものがある。

戦後の旧海軍司令部壕

戦後しばらくの間、旧海軍司令部壕はそのまま放置された状態であった。

 

1953年に生き残った元日本軍が戦後はじめてここを訪れたときは、入り口は崩壊し泥水で溢れかえった状態であったという。

 

ここは持久戦に備えて約4000人の兵士が収容されていた場所であり、内部からは司令官を含め約2000名以上の遺骨の収集が行われ、近くには沖縄海友会ならびに海軍戦没者慰霊之塔建立発起人会によって海軍慰霊之塔が立てられている。

 

そして1970年に司令官室に整備と復元が行われ、一般公開に至っている。

 

また壕内から発見された遺品、写真や電報などの歴史的資料などが展示されており、沖縄戦の事実と悲惨さを伝える貴重なスポットとして保存されている。

 

1972年には周辺は海軍壕公園として整備された。

 

今では財団法人沖縄観光コンベンションビューローが管理しており、高台にあることからビュースポットとしても親しまれている。