貝塚時代の前期と後期

沖縄の貝塚時代は、主に日本が縄文時代であった貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期の2つに大きくわけられる。

 

沖縄では今から約6600年前に九州や奄美地方からやってきた人によって縄文文化が伝えられ、それが土台となって沖縄独自の貝塚文化が生み出されたのである。

 

日本本土は縄文文化から次第に稲作や鉄・青銅器などを使用する弥生文化へと変化していく中で、沖縄では海や山のものを獲って暮らす生活が10〜12世紀ころまで続いていたと言われている。

 

つまり日本が平安時代を迎えることまで、貝や魚を獲る漁労採集の生活を営んでおり、まさに海に囲まれた沖縄ならではの地形を活かした暮らしを送っていたのである。

 

事実、弥生時代の水田の跡などは沖縄から発掘されておらず、貝塚時代後期からようやく稲作がスタートすることとなる。

貝塚文化とその生活

貝塚時代前期は、比較的暮らしやすい珊瑚礁に囲まれた砂浜周辺に人々は住み着き、魚介類に恵まれた生活を営み、貝塚時代後期は交易を中心とした生活に切り替わり、良港に恵まれた海岸に人が集中していった。

 

沖縄の貝塚時代は、貝塚を中心とした集落が形成されていき、貝塚時代前期については本土の縄文時代中期頃から遺跡がみられるようになる。

 

本土の弥生時代にあたる後期には、九州との交易も活発に行われており、九州の遺跡からは琉球産の貝でできた腕輪なども発見されており、遠くは北海道でも発見されている。

 

特に貝の道と呼ばれる貝製品の材料となる南西諸島に生息する貝を、日本本土へ大量に運ばれていたことが確認されている。

 

しかし沖縄の貝塚時代の土器の形や作りなどは、日本の縄文土器と類似しているところも見られるが、土器の種類や形の特徴は異なる。

 

また精霊を表現したと言われている土偶は、日本本土では比較的多数発掘されているが、沖縄では発見されていない。

 

このように沖縄の貝塚文化は縄文文化の影響を受けながらも、独自の文化を形成していたことが分かる。

 

沖縄は日本本土の縄文文化の影響を受けていたものの、宮古島や八重山諸島などのいわゆる先島諸島では、また少し異なる歴史や文化を見ることができる。

 

先島諸島からは東南アジアと関連性のある土器や遺物が発見されており、東南アジアの文化の影響を比較的早い段階から取り入れていたものと考えられている。